【美濃のマムシ:斎藤道三】下剋上で国盗りした男の人生とその最期

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【美濃のマムシ:斎藤道三】下剋上で国盗りした男の人生とその最期

斎藤道三(利政)は下剋上で国盗りをした戦国武将として知られています。戦国時代は家臣の謀反も当然でしたが、そのなかでも道三は下剋上大名の代名詞的存在といわれているほどです。

君主にかわって美濃国主となった道三は、大きな成功を収めた戦国大名といえるでしょう。しかし、成功までの輝かしい歩みに反し、まさかの最期を迎えます。

今回は、斎藤道三のうまれから前半生の活躍、国盗りから美濃平定までの経緯、晩年とその最期、道三にまつわる謎などについてご紹介します。

うまれから前半生の活躍

道三は油売りから身をたてて美濃の国を乗っ取ったといわれていましたが、近年の研究では、油商人だった父と親子二代で国盗りを行った、という説が有力となっています。そのため、通説の前半は父の経歴のようです。

油商人から身をたてた父・長井新左衛門尉

父・長井新左衛門尉は出家して受戒した僧侶でしたが、僧籍を離れて油商人となり、行商で成功しました。しかし、あるとき一念発起して武芸の道へ進み、美濃の守護、土岐氏の小守護代・長井長弘の家臣になります。このころ美濃では、守護の地位をめぐって兄・土岐頼武(政頼)と弟・土岐頼芸(ときよりあき)が対立していました。新左衛門尉は本来の主家である頼武方として参戦しましたが、最終的には敗退。彼自身はこの戦を利用して勢力を伸ばしていたようですが、天文2年(1533)に亡くなったといいます。

天下取りの夢を引き継いだ道三

道三のうまれは明応3年(1494)とされ、当時の史料に登場する藤原規秀という人物ではないかといわれています。本来の主家ではない頼芸の重臣として活躍した彼は、頼武との戦いの際にも頼芸方について戦いました。その後、越前国に追放された頼武に内通したとして、当時実権を握っていた長弘を殺害。ここから道三の下剋上が始まります。

美濃国の国盗りから平定まで

父の夢を引き継いで美濃の乗っ取りを成功させた道三。頼芸親子の追放から美濃平定までの経緯を振り返ります。

土岐頼芸を追放して美濃国主へ

天文10年(1541)道三が土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺し、それ以降、道三と頼芸の仲は険悪なものになりました。二人は次第に対立するようになり、翌年には道三が頼芸の居城・大桑城を攻撃。頼芸は鷺山城へ移りましたが、子の頼次ともども尾張に追放されます。これにより道三は、事実上の美濃国主になったのです。

織田信秀と対立する

道三の居城・稲葉山城。現在は岐阜城跡となっています。

尾張の織田信秀を頼った頼芸は、同じく追放され朝倉孝景に庇護されていた頼武の子・土岐頼純と連携します。そして、織田氏と朝倉氏の後援を受け、土岐氏の復権をかかげて美濃に侵攻。その結果、頼純は革手城に、頼芸は揖斐北方城への復帰を果たします。天文16年(1547)9月には信秀が道三の居城・稲葉山城を攻めましたが、道三は籠城して織田軍を壊滅寸前にまで追い込みました。

織田信長に帰蝶を嫁がせる

このような情勢のなか、道三は信秀と和睦し、娘の帰蝶(濃姫)を信秀の嫡子・織田信長に嫁がせます。この和睦により、織田氏の後援を得ていた相羽城主や揖斐城主を滅亡に追い込み、頼芸を再び尾張へと追放。ついに道三は美濃を完全に平定したのです。
若いころの信長は奇天烈な外見や言動から「うつけ者」といわれていましたが、道三の前には正装で現れ、護衛には鉄砲を装備させていました。これを見た道三は大変驚き、信長の器を見抜いて将来を見込んだといわれています。

晩年とその最期

二代にわたる国盗りを成功させた道三でしたが、最後は意外な展開を迎えます。その晩年はどのようなものだったのでしょうか?

嫡男・斎藤義龍に家督を譲り隠居

長浜市立長浜城歴史博物館所蔵の、斎藤義龍像です。

天文23年(1554)道三は家督を嫡男・斎藤義龍に譲渡し、常在寺で剃髪して仏道に入り、鷺山城で隠居しました。しかし、この隠居生活は穏やかなものではなくなっていきます。というのも、道三は義龍よりその弟である孫四郎や喜平次らを偏愛したのです。道三は義龍を「おいぼれ者(馬鹿者)」だといい、弟たちを「利口者」だと評しました。このような道三の態度から、義龍との仲が悪化していったのです。

長良川の戦いで敗死する

弘治元年(1555)義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵します。この長良川の戦いでは、国盗りの経緯から道三に味方するものはほぼいませんでした。斎藤氏の重臣や旧土岐家家臣団は、義龍を支持したのです。

序盤こそ優勢だった道三ですが、義龍との兵力差は埋められず、ついに首を討ち取られます。娘婿の信長が援軍を派遣したものの、結局間に合いませんでした。

戦死前の道三は「信長に美濃を譲る」という遺言書を書くほど義龍を侮っていました。しかし、この戦いで義龍の采配を見て、後悔したといわれています。

道三にまつわるミステリー

その狡猾さから「美濃のマムシ」と呼ばれる道三。そんな彼にまつわる謎についてご紹介します。

義龍は実子ではない?

義龍との対立によりこの世を去った道三ですが、そもそもなぜ義龍を「おいぼれ者(馬鹿者)」だと評価したのでしょうか?

実は義龍は、頼芸の子供だという説があります。義龍の母・深芳野はもともと頼芸のお気に入りのめかけで、のちに道三の側室となりました。そして、側室となったときにはすでに懐妊していたといわれているのです。

ただしこの説は信憑性に乏しく、真偽のほどは定かではありません。

北面の武士の家系だった?

『美濃国諸旧記』によると、道三の家系は先祖代々「北面武士(ほくめんのぶし)」を務めていたといいます。北面武士は11世紀末に白河法皇が創設したもので、上皇の身辺を警衛する役目をおっていました。普段は御所の北側の部屋下に詰めており、寺社が徒党を組んで強硬な訴えを起こした際は、院の直属軍として動員されたのです。

父・新左衛門尉は油商人と伝わっていますが、もともとは武士の家系だったといえるかもしれません。

下剋上で成り上がり、下剋上で身を滅ぼした

美濃の国盗りを成功させた道三は、息子からの下剋上によりこの世を去りました。激動の戦国時代を権謀術数で成り上がった道三でしたが、そんな彼でも義龍の手腕を見抜くことはできなかったようです。道三死後、斎藤氏は急速に求心力を失っていきます。そして、下剋上を繰り返して手に入れた美濃は、信長によって支配されることになるのです。しかし、道三の血筋は公家や皇族にも流れており、現在の日本にも脈々と受け継がれています。

 

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