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【性豪過ぎて妻が過労死!?】江戸三大俳人・小林一茶の激しすぎる〇〇

松尾芭蕉与謝蕪村と並び「江戸三大俳人」と称される小林一茶。子どものあどけない様子や、スズメやカエルなど可愛らしい小動物を題材にした作品から、穏やかなイメージを受けますが、実はあっちの方がすごかったようなんです…。今回は、一茶の作風や生涯とともに、晩年の激しすぎる性の営みについてご紹介します。

小林一茶

江戸三大俳人・小林一茶

宝暦13年(1763)、信濃国柏原(現在の長野県上水内郡信濃町柏原)に生まれた小林一茶は、15歳のとき、奉公のために江戸に出ます。やがて俳諧を学ぶと才能を発揮し、「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」など、生涯に2万2000句もの作品を残します。

方言や俗語を交えた独特な作風は「一茶調」と呼ばれ、当時の俳句界で一定の地位を確立しましたが、絶大な評価を得るには至りませんでした。
しかし、明治時代になると、近代俳句の祖とされる正岡子規が『一茶の俳句を評す』と題した文章を発表したことをきっかけに、再び脚光を浴びます。以来、松尾芭蕉や与謝蕪村と並び称される「江戸三大俳人」として、多くの人々に親しまれるようになりました。

明治時代を代表する文学者の一人・
正岡子規。

また、一茶の代表作として知られるのが、俳諧俳文集『おらが春』です。文政2年(1819)、57歳になった一茶が、折々の出来事に寄せて読んだ俳句や俳文をまとめたもので、その表題は、本文の第一話の中に出てくる句「目出度さも ちう位也 おらが春」からとられています。

嘉永5年(1852)刊行の『おらが春』初版本。
(県立長野図書館蔵)

継母、異母弟との遺産相続争い

一茶の人生において過酷だったのは、病に倒れた父を看病するため信濃に帰郷した39歳の時。父はすぐに亡くなってしまったのですが、それから12年に渡り、継母・義弟との遺産相続争いをすることになります。

争いは父の遺産配分に継母らが異を唱えたことから始まりますが、確執の根は深く、そのきっかけは義弟の誕生にまでさかのぼります。
義弟の仙六が生まれたのは、一茶が9歳のとき。以来、朝から晩までお守りをさせられ、仙六がむずかると「わざとやった」と疑われ、継母から杖でぶたれること「日に百度、月に八千度」、涙で目が腫れないときはなかったとか。継母と異母弟に馴染めなかったことから、一茶は江戸へ奉公に出ることになったのです。

日本の私小説のルーツともされる『父の終焉日記』には、亡くなった父との最後の日々が綴られているとともに、継母に対する憎悪も描かれています…。

『父の終焉日記・おらが春 他一篇』
小林一茶著・矢羽勝幸校注
(岩波文庫)

まじか!?激しすぎる夜の営みの回数

継母・義弟との壮絶な遺産相続争いが解決し、江戸から故郷へ戻った一茶は、52歳ではじめて結婚します。妻となったのは隣村のという女性で、その年齢は28歳と、一茶より24歳も年下でした。現代でも騒がれそうな年齢差ですが、幸せもつかの間、菊は37歳の若さで亡くなってしまいます。

一茶が65歳の生涯を閉じた土蔵跡(長野県上水内郡信濃町)。

その原因といわれるのが、一茶の驚くほどの絶倫ぶりです。
根拠となっているのが一茶の日記で、「夜雷雨。夜三交」「墓詣。夜三交」「通夜大雷。四交」「晴、夜交」など、そこには一晩に何度いたしたかが、日々克明に記されています。
平均寿命が40~50歳ともいわれる江戸時代、50代になってひと晩に3度も4度もできるというのですから、その性豪ぶりは半端ではありません。連日の激しすぎる夜の営みが原因なのか、その真相は不明ですが、妻である菊は、結果的に過労死してしまいます。

その後も一茶の絶倫ぶりはとどまることを知らず、62歳のとき、という女性と再婚。わずか3カ月で離婚してしまいますが、不仲の原因は、あまりにも多すぎる夜の営みだったといわれています。
さらに64歳のとき、32歳のヤオという女性と3回目の結婚。女盛りの妻を相手に、一茶は65歳で亡くなる直前まで営みを続けた結果、なんとヤオは妊娠したという話も伝わっています。

作品とのギャップもさることながら50歳過ぎてからというのが驚きです。何歳になっても元気なことはいいことですが、もう少し相手を思いやってあげてもよかったかもしれません。

(スノハラケンジ)

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