天文3年(1534年)5月12日は、かの有名な織田信長の誕生日です。
誰もが知る戦国のヒーローですが、一般的には冷酷非道というイメージが強いのではないでしょうか。
しかしそんな信長、実は女性に優しい一面も持っていたのです。そこで今回は、信長が愛した女性たちとのエピソードをご紹介しましょう。
第六天魔王と呼ばれた信長、実はフェミニスト?
「比叡山の焼き討ち」「浅井・朝倉の首を金箔で披露」「伊勢長島一向一揆の殲滅」などの戦歴から、織田信長には苛烈などのイメージを抱く人も多いと思います。
しかし、味方や身内には非常に細やかな気配りをする人物でもありました。
特に女性を大切にしたようで、豊臣秀吉の妻・寧々から、秀吉の女遊びの激しさを訴えられると、『お前は秀吉にはもったいない程の妻だから、あまり思い込まないように』という返書を認めています。
ここで注目なのは、信長がただ怖いだけの人物であれば、寧々も訴えるようなことはしなかったであろうということです。
女性の言い分でも真剣に取り合ってくれる、という家中の女性たちからの信頼があったことが、信長の性格を表しているのです。
信長最愛の女性・吉乃
こうしたフェミニストでもある信長は、実際に妻たちにも優しく接していました。
その中でも、信長最愛の女性とされる吉乃とは、互いを思いやる関係にありました。
吉乃は、最初の夫が戦死して、後家として実家の生駒家に戻っていた際、信長に見初められました。馬借(運送業)を営む生駒家と織田家とは家格が違う、という反対を押し切って、信長が猛アタックし妻にしたのです。
吉乃は信長に愛され、信忠、信雄、徳姫と三人の子をなしました。
しかし、徳姫を産んだ後、吉乃は産後の肥立ちが悪く、床に伏しました。まさしく信長がこれから大きく飛躍しようとする時でした。
吉乃は、自分のために信長が行動を控えてしまうのを怖れたのでしょう。自分の病のことを信長に知らせないように回りに命じました。
一方、信長は、正室である濃姫や側室の吉乃のために小牧山城を改修し、吉乃のための御殿を建てました。そして、吉乃に小牧山に移動するように使者を送ったところで、信長はようやく吉乃が重体だと知ったのです。
すぐさま、信長は輿を吉乃に送ります。吉乃の身分では乗れないものでしたが、信長は構わずに吉乃を乗せ、小牧山に移しました。それからというもの、信長自ら頻繁に見舞うなどしましたが、その甲斐なく、吉乃は1566年、39歳で死去してしまいました。
信長は、非常に悲しんだと伝わっています。
信長の正室・濃姫の謎
信長最愛の女性・吉乃は、側室でした。
では、正室は誰かというと、有名な濃姫です。濃姫は、美濃国主・斉藤道三の娘でした。道三は、信長と会見した際に信長の器量を認め、娘を嫁に出すことを了承しました。
濃姫は美『濃』の姫だから濃姫といわれているだけで、実際の名は帰蝶であったとも言われていますが、本名はわかっていないのです。
その大きな理由は、信長との間に子ができなかったからです。
しかし、信長と不仲であったかというと、そういうわけではなかったようです。
数々の史料から、どうやら信長の死後も生き延びていたこともわかっています。
信長に関しては、女性との問題がほとんど史料に残っていません。
古今を問わず、側室との関係がこじれたり、妬みや恨みなどで女性関係が暴露される偉人は多いものです。しかし、そういった醜聞が信長に関してほとんどないのは、濃姫が奥向きのことをしっかり管理していた証といえるでしょう。
吉乃と濃姫、最愛の女性と家を任せられる妻を手に入れたからこそ、信長は天下統一の道を邁進できたのではないでしょうか。
(黒武者 因幡)
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