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【中国史上唯一の女帝・武則天】子供を殺して頂点を極めた悪女の一生

武則天(則天武后)は、呂雉(りょち)、西太后(せいたいこう)と並ぶ中国三大悪女の1人で、中国史上唯一の女帝です。呂雉も西太后も残虐行為で有名ですが、武則天は出世のために自分の子供を殺すことも厭わず、さまざまな悪行を繰り返したといわれています。今回は、武則天の一生を振り返りながら、彼女の残酷な行いについてご紹介していきます。

武則天

14歳で皇帝の側室となる

武則天は、中国・荊州の官僚の次女として生まれました。美しく利発な娘を父はとてもかわいがっていたようで、幼い頃から学問や芸事を学ばせました。彼女自身も学問が好きで、食事中も書物を放さず、音楽も巧みだったといわれています。そんな彼女は14歳で唐の第2代皇帝・太宗(=李世民)の後宮に入り、才人(妃嬪の地位、正五品)という側室の一人となりました。後宮には多くの側室がいましたが、武則天はその美貌と才覚を発揮し、太宗の寵愛を一身に受けるようになります。

美しい武則天

武則天はその美貌と才覚で太宗の寵愛を得た(ドラマ『武則天-The Empress-』より)

一度は出家の道を…

やがて「唐三代の後に武姓の女主が天下を有す」という噂が世の中に流れたことから、太宗は武則天を遠ざけるようになります。そんな中、太宗の子である皇太子・李治(後の第3代皇帝・高宗)が武則天の美貌に一目惚れし、父である太宗の目を盗んで彼女と愛し合うようになりました。武則天は太宗に嫌われたため、李治を籠絡して身の安泰を図ったようです。しかし、649年に太宗が崩御したため、武則天も先例に従って出家し、尼となる道を選びます。

側室から皇后へ

太宗に代わり、皇太子の李治は第3代皇帝・高宗として即位します。この時期の後宮は、王皇后と蕭(しょう)淑妃が高宗の寵愛を争い対立していました。高宗の関心を蕭淑妃から逸らしたかった王皇后は、武則天を後宮に呼び戻すことを進言します。高宗は王皇后の狙い通り武則天を感業寺から呼び戻し、昭儀(しょうぎ=妃嬪の地位、正二品)として入宮させました。しかし、武則天が後宮に入ると、またたく間に王皇后も蕭淑妃も高宗の寵愛を失いました。

恐ろしい悪女

皇后の座へと上り詰めた武則天(ドラマ『武則天-The Empress-』より)

子供を殺した恐ろしい悪女

武則天に対する高宗の寵愛は深まるばかりでしたが、それだけでは満足せず、皇后の座を奪うことを決意します。ある日、王皇后は出産を祝うために武則天の部屋を訪れました。しかし彼女は留守にしており赤ん坊だけが部屋に残されていたため、王皇后は赤ん坊をあやした後に退出します。武則天はそのタイミングを見計らい、何と我が子を絞め殺したのです。女児の顔を見に来た高宗が、子供が死んでいるのに気がつくと、武則天は「王皇后が子供を毒殺した」と泣いて訴えました。高宗は王皇后が女児の部屋から出て行く姿を見た者がいたので、武則天のいうことを信じてしまいます。

高宗は「王皇后を廃して、武則天を皇后に立てたい」と発案。佞臣(ねいしん=主君にへつらう臣下)たちも高宗の機嫌をとるために、武則天を皇后にすることに賛成しました。

655年秋、高宗は武則天を皇后に立て、王皇后と蕭淑妃を「陰謀下毒」の罪によって罪人とします。こうして、武則天はついに皇后となりました。

策略と残虐の数々

皇后となった武則天は、監禁されていた王皇后と蕭淑妃を百叩きにし、両手足を切断し、「骨まで酔わせてやる」と言って酒甕(さかがめ)に放り込んで殺しました。二人は酒壷の中で数日間泣き叫んだ後絶命したと言われています。

やがて武則天は、病弱な高宗に代わって「垂簾聴政」(すだれの奥から皇帝にかわり皇后や皇太后が行う政治のこと)を行うようになります。彼女は自分に忠実で才能のある者を身分に関係なく登用し、親族に高い地位を与え、勢力確保に励みました。一方で、長孫無忌(ちょうそんむき)や褚遂良(ちょすいりょう)など彼女に反抗する重臣達には容赦なく、謀反の罪を着せて自殺に追い込んだり、処刑したりしました。

また、武則天は皇帝と対等の立場であることを示すため、高宗を天帝(てんてい)と呼ぶのに対し、自分を天后(てんこう)と呼ばせます。ですが、聡明であった皇太子・李弘は、母親の垂簾聴政に批判的でした。そんな李弘は24歳で急死します。これも武則天による毒殺でした。

その後、高宗は政治の実権を取り戻そうとしましたが、彼女は事前にこの計画を察知し、高宗の政権奪回を許しません。そして683年、高宗は失意のうちに亡くなりました。

武則天は息子の李顕を第4代皇帝・中宗として即位させます。しかし、中宗の妻である韋皇后(いこうごう)は武后に負けず権力欲の強い女性だったため、夫に頼んで自分の一族を出世させようとします。これが武則天の怒りを買い、中宗はわずか54日で廃位に至りました。その後、武則天は中宗の弟を即位させ、第5代皇帝・睿宗(えいそう)としました。睿宗は母親に逆らうことはできず、傀儡(かいらい)に甘んじます。

中国史上初の女帝として即位

武則天は自分に逆らう李一族(皇帝一族)や唐の重臣たちの勢力をことごとく打倒し、自分の思うままの政治を行いました。690年、ついに武則天は自ら聖神皇帝と称して帝位に就きました。国号も唐から周(武周)と改め、さらに都も長安から神都と改名した洛陽に移したのです。

女帝となった武則天は美男子を寵愛したり、親族を偏重したりする一方、狄仁傑(てきじんけつ)という有能な人物を宰相に任命したため、農民による反乱は一度も起きませんでした。政権の基盤はしっかりしており、民衆の生活は安定していたようです。狄仁傑は、自分のおいの武承嗣(ぶしょうし)と武三思(ぶさんし)のどちらを皇太子に立てようか迷っていた武則天を諌め、流刑にされた中宗を許して皇太子にするように勧めます。武則天は狄仁傑の諫言(かんげん)を受け入れ、中宗と韋皇后は宮廷に戻ることになりました。

転がり落ちた地位

武則天は年老いても相変わらず美男を好み、わがままで横暴な振る舞いを極めました。そのため、宮廷では武則天の機嫌ばかり伺う佞臣たちが権力をふるうことになったようです。一方で、狄仁傑が生前育てた忠臣たちは唐王朝の復興を願っていました。

年老いた武則天

年老いた武則天(ドラマ『武則天-The Empress-』より)

子供による反逆

宰相の張柬之(ちょうかんし)ら忠臣たちは皇太子となった中宗を説得し、武則天から政権を奪い返す決意をさせます。705年の早春、張柬之らは武則天に「則天大聖皇帝」の尊号(そんごう)を奉じることを約束して、中宗に譲位することを承知させました。中宗と韋皇后は復位して国号を唐に戻し、洛陽に移っていた都も長安に戻します。退位した武則天は裏切られ上陽宮に軟禁、一族の者たちともなかなか会えなくなり、更にかわいがってきたおいの武三思(ぶさんし)まで韋皇后と深い仲になってしまいました。

武則天の最期

失意の武則天は年齢的にも衰え、日に日に気力も体力もなくなり、昔のことを思い出しては涙を流していたようです。そして705年、武則天は亡くなり、その翌年706年、高宗とともに乾陵(けんりょう)に葬られました。

恐ろしくも美しく才気あふれる女性だった

自分の子供を殺し、出世のためには手段を選ばず、敵に対しての振る舞いは残虐で容赦なかった武則天。しかし、政治手腕に優れ、国内外の諸問題を解決して国を安定させたのも事実です。悪女として語り継がれる残虐な側面だけでなく、彼女の女帝としての功績についても目を向けてみてはいかがでしょうか。

中国歴史ドラマ「武則天ーThe Empressー」

放送日:2018年4月7日(土)スタート 毎週土曜 午前10:00~ 7話連続
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/busokuten/

※映像の放送日は2016年のものです

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画像:『武則天-The Empress-』© 2014 ZheJiang Talent Television & Film Co., Ltd. All Rights Reserved

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