日本史の中でもさまざまな有名人物が登場する幕末から明治初期。その中でも異彩を放つのが、自由民権運動で知られる板垣退助です。 今回は、あまり知られていない幕末期の活躍から、明治政府での働き、そしてその後の自由民権運動まで、日本史上に大きな足跡を残した板垣退助の生涯についてご紹介します。
幕末期の板垣退助
土佐藩の上士の家に生まれた板垣退助は、子ども時代は腕白小僧として有名でした。その性格が災いしてか、安政3年(1856)に高知城下への禁足を命ぜられます。この時、多くの庶民と触れ合う機会を得たことが、後の自由民権運動へとつながっていきます。長じてからは藩政を動かせる位置にまで出世しました。
特に親しかった中岡慎太郎らの影響を受け、武力による倒幕が日本を救う道と悟った板垣は、藩の軍制改革、薩土密約を通じて薩摩藩との倒幕協調路線を図るなど、倒幕の推進に貢献します。また戊辰戦争開始後は総督府参謀として、旧幕府勢力を各地で打ち破るなど華々しい活躍をみせました。
薩土密約を果たす
幕末期に板垣が果たした大きな仕事の一つに薩土密約があります。土佐藩の上士には珍しく武力による倒幕を目指していた板垣は、土佐藩を倒幕勢力の薩摩藩と結びつけようと画策しました。薩摩藩も土佐藩の実力は認めていたため、慶応3年(1867)5月21日、薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀らと土佐藩の中岡慎太郎・谷守部(たにもりべ=後の谷干城)と板垣(この当時は乾退助)らが密議。戦が始まれば藩論に関わらず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流するという決意を語り、武力倒幕のために共同路線を取ることに合意しました。これが薩土密約です。後日この密約に基づき、板垣は藩兵を上洛させます。
戊辰戦争での大活躍
戊辰戦争が始まると、板垣はかつて武市半平太や坂本龍馬が属した土佐勤皇党の藩士を中心に迅衝隊を組織し、その総督として各地を転戦しました。特に甲州勝沼の戦いでは近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(旧新選組)を撃破し、その後も東北戦線で東北諸藩を下す大活躍を見せます。後に明治時代の軍人として日清・日露戦争を戦う傑物が多くいる中でも、板垣の軍事的才能は一際輝きを放っていました。
明治政府と征韓論
幕府勢力が倒れ、新しく明治政府が立てられた直後、板垣は新政権の中枢で新しい国づくりのために活躍していました。岩倉具視、木戸孝允ら明治政府首脳部が岩倉使節団として欧米視察中に、その留守を預かるため三条実美、西郷隆盛らと留守政府を結成。さまざまな改革に取り組みます。武力で朝鮮を開国しようとする征韓論を主張したのもこの頃でした。
明治政府で要職を歴任
明治政府成立後の明治2年(1869)、板垣は西郷隆盛、木戸孝允らと参与に就任します。その後高知藩の大参事や政府の参議を歴任。そして西郷ら留守政府のメンバーとともに征韓論を主張し、欧米視察から帰国した大久保らと激しく対立します。
征韓論とは?
明治初期の日本で巻き起こった征韓論は、明治政府が送った国書の受け取りを拒否するなど、日本に無礼な態度を取り続けていた朝鮮に出兵することを主張した論です。日本では江戸時代後期から朝鮮進出を唱える議論があり、朝鮮側はそれに反感を抱いていました。朝鮮側では国内での鎖国攘夷の機運の高まりもあり、日本との国交交渉を拒否。さらに朝鮮にある大日本公館の門前に「日本は無法の国」と非難する看板が出されたことなどから、板垣らは居留民保護などを理由に出兵を主張しました。
明治六年の政変について
その後、征韓論を巡って明治政府内で激しい論争が起きます。板垣や西郷隆盛らが主張する征韓論に対し、ヨーロッパ視察から帰った岩倉具視、大久保利通らは強く反対。ヨーロッパの強国を見てきた大久保らとしては、日本は内政を充実させ、産業を整備し国力を増強することがなによりの課題と確信していました。一度は征韓論派の意見を奏聞する運びとなりますが、岩倉、大久保の活躍で覆され、西郷、板垣らとそれに同調する軍人官僚約600人が政府を去り、明治六年の政変と呼ばれる大きな政治事件となりました。
自由民権運動と板垣退助
戊辰戦争では希代の軍才を発揮した板垣ですが、明治政府発足後は新しい国の形作りのために情熱を捧げていきます。その一つが当時の日本に大きな影響を与えた自由民権運動です。
自由民権運動の思想とは?
征韓論が通らず政府を去った板垣は、五箇条の御誓文の「万機公論に決すべし」という一文を根拠に、明治7年(1874)愛国公党を結成し、後藤象二郎や副島種臣らと民選議院設立建白書を政府に提出。自由民権運動を開始します。
当時、薩長などの藩閥に握られていた国政に対して、民選による議会を立ち上げることで広く国民を関わらせよう、みんなの意見で国を動かして行こうという今までの日本になかった運動でした。運動の主張には他に憲法の制定、税金の軽減なども含まれていました。
自由党を結成し党首に
民選議院設立の運動が実り、明治14年(1881)に国会開設の詔が出されます。板垣はこれを契機に、自由党を設立し党首に就任。自由党は日本で最初の全国的な政党となり、自由民権運動の中核を担います。しかしその後、政府の弾圧や内部抗争などにより、残念ながら数年で解散しました。
「板垣死すとも自由は死せず」
自由党結成後、板垣は遊説のために全国を回っていました。岐阜で遊説中、自由党の活動をよく思わない暴漢に襲われ負傷します。その際に言い放ったと言われているのが有名な「板垣死すとも自由は死せず」です。板垣は自分を襲った暴漢への特赦を、後に明治天皇に嘆願します。
この一件はたとえ命を襲われようとも、自分の理想を信じ生きる板垣の姿勢がよく表れています。
庶民派の政治家として人気に!
自由民権運動を通じ、政府へ民選議院の設立や税金の軽減などを訴えた板垣。庶民派の政治家として国民から多くの支持を得て、戦後には紙幣に肖像画が使用されました。
「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が有名な板垣退助ですが、国を想い理想を追って日本史の激動期を走り抜けた、意外に知られていない彼の人物像に触れてみてはいかがでしょうか。