平安時代中期に絶大な権力を振るった公卿・藤原道長。自分の娘たちを次々に天皇に入内させ、生まれた皇子を天皇に即位させるなど、政治に絶大な影響を及ぼしました。またこの当時に書かれた王朝文学の傑作『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルではないか?ともいわれています。今回は、道長が大出世するきっかけとなった女性たちをご紹介いたします。
天皇の生母である姉の推薦で出世!
康保3年(966)、藤原道長は京都で摂政・藤原兼家の五男として生まれました。有力な兄たちがいるために目立たたず、五男となると出世の見込みもありません。そんな中、兄たちが次々に急死してしまいます。生き残った兄は側室の子で、正室の子である道長は実質上の跡取りとなり、寛和2年(986)に昇殿を許され、官位も急速に昇進します。
その頃、幼い一条天皇が即位し、父・兼家は摂政を任ぜられます。兼家の死後は、長兄・道隆が摂政・関白となり、道隆の娘・定子が一条天皇の后となります。一条天皇は定子を寵愛し、定子の兄である伊周のことも信頼していました。道隆が亡くなると嫡男である伊周ではなく、次兄・道兼に関白の座がわたりますが、道兼も数日後に病死してしまいます。
順当にいけば伊周が関白になるところ、ここで浮上したのが道長でした。
一条天皇の生母・詮子は兼家の次女であり、道長とは歳も近く仲の良い姉弟でした。詮子は甥・伊周を疎ましく思い、可愛がっている弟の道長の登用を、息子である一条天皇に迫ります。時には涙ながら訴えたとか。
当然、伊周と道長の対立は激しくなりますが、伊周と伊周の弟・隆家は事件を起こし失脚、左遷となったため、道長は「内覧」という職につくことになります。「内覧」とは、天皇に提出する文書を先に見る職業のことです。次姉の力により、長兄の息子を押しのけて、道長が大出世を果たすのです。
才女・紫式部を娘の家庭教師にして出世!
次に道長は、自分の長女・彰子(しょうし)を一条天皇に入内させます。もちろん目的は孫皇子の誕生です。しかし、この時点で定子が生んだ第一皇子・敦康親王もいますし、深い寵愛を受け続けていました。
しかし長保2年(1001)、定子が第二皇女出産直後に若くして崩御。その後、実家は没落の一途をたどり、敦康親王は第一皇子でありながら、即位できませんでした。後ろ盾となる母親の実家の権力の強さが、問われる時代なのですね。
彰子が一条天皇の寵愛を得られるよう、道長は才女として名高い紫式部を宮中へ出仕させます。華麗な文芸サロンが形成され、文芸好きな一条天皇も次第に足を向けるようになりました。ちなみに定子についていたのが、『枕草子』で有名な清少納言です。
寛弘5年(1008)、入内10年目にして彰子が皇子・敦成親王を出産、翌年さらに敦良親王も生まれ、道長は大喜びしました。
そしてついに、長和5年(1016)、敦成親王が後一条天皇に即位。道長は摂政となり、天皇の祖父となります。のちに敦良親王も長元9年(1036)、後朱雀天皇に即位しますが、道長は万寿4年(1028)12月4日、62歳で亡くなります。
天皇に4人の娘を嫁がせ、3人の孫が天皇に
道長は、一条天皇の後に即位した三条天皇に次女・妍子(けんし)を、後一条天皇には三女・威子(いし)を、後朱雀天皇には六女・嬉子(きし)を嫁がせています。その嬉子の産んだ親仁天皇はのちに後冷泉天皇になります。道長は天皇に4人の娘を嫁がせ、孫が3人も天皇になったというわけです。
道長自身は摂政になった翌年に、息子の頼通に摂政をゆずります。実は道長が摂関の地位についたのはこの時だけなんです。子供や孫の代のためにしっかりと基盤を固めておいたのでしょう。頼通はその後、摂関の地位に約50年間就きますが、皇室に嫁がせた娘からはついに天皇となる男児は生まれませんでした。
五男として生まれ、出世の可能性がなかったにもかかわらず、道長が繁栄を築けたのは、発言力があり、または才能ある女性を味方につけていたからといえるでしょう。娘たちに優秀な女性をつけたおかげで、和歌や物語などの文化も栄えました。
また、今よりも伝染病や産後の肥立ちで亡くなる人も多い時代、多くの娘に恵まれたことも、道長の運の強さまで持ち合わせていたことを物語っています。
藤原道長といえば、三女・威子を嫁がせたときの宴で詠んだ和歌「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」が有名ですが、これだけの運の強さであれば、調子に乗ってしまうのもわかるような気がします。
関連記事
【 藤原道長に織田信長まで… 】あの歴史上の人物も実は糖尿病だった?
【 平安時代の小悪魔系女子? 】「浮かれ女」と呼ばれた歌人・和泉式部
コメント