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【禁門の変(蛤御門の変)】なぜ長州藩は朝敵となったのか?

【禁門の変(蛤御門の変)】なぜ長州藩は朝敵となったのか?

日本史の中でも特に関心を集めている明治維新から150年が経ちました。薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍が旧幕府軍に勝利し、明治維新を成し遂げたことは多くの方が知るところでしょう。しかし、この薩摩藩と長州藩がもともとは非常に仲が悪かったことをみなさんはご存知でしょうか。

今回は、幕末維新史における重要な事件であり、薩摩と長州の関係を悪化させるきっかけとなった「禁門の変(蛤御門の変)」についてご紹介していきます。

禁門の変とは?

禁門の変

元治元年(1864)7月19日、尊王攘夷を掲げる長州藩と、会津藩・薩摩藩を中心とする幕府勢力が、京都御所で激突しました。これが「禁門の変」です。激戦地の地名を取って「蛤御門(はまぐりごもん)の変」とも呼ばれるこの戦いは、京都市中の約3万戸が焼かれる市街戦にまで発展しました。

開戦当初は長州藩が戦いを有利に進めていましたが、西郷隆盛率いる薩摩藩の参戦により戦局は一気に逆転。戦いは長州藩の敗北に終わり、藩の中心人物であった来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉らも命を落としました。以後、御所に発砲した罪で長州藩は朝敵となり、尊王攘夷派はその勢いを大きく失っていくことになったのです。

長州が禁門の変をおこした経緯とは

長州藩の屋敷跡
長州藩の屋敷跡。

禁門の変が起こる以前、長州藩は急進的な尊王攘夷主義を掲げ、公家の三条実美らと手を結び、京都政界で大きな影響力を持つ藩となっていました。そんな長州藩が、なぜ孝明天皇のいる京都御所を攻撃するような事態に陥ってしまったのでしょうか。

八月十八日の政変で京都を追われる

文久3年(1863)、勢いを増す長州藩は孝明天皇の大和行幸を提案します。これは神武天皇陵や春日大社を参詣して攘夷を祈願するという趣旨のものでしたが、真の目的はそれに乗じて倒幕の兵を挙げることでした。この企てを知った会津藩の京都守護職・松平容保と薩摩藩の島津久光はすぐさま同盟を結び、公武合体派の中川宮朝彦親王に真相を伝えます。中川宮に説得された孝明天皇は、薩摩藩と会津藩に御所を守らせ、長州藩とそれに同調する公家たちを追放しました。この「八月十八日の政変」と呼ばれる事件によって尊攘派は京都から一掃され、長州藩は会津藩と薩摩藩に対して激しい恨みを抱くようになるのです。

長州藩の内部での考え方

長州藩は京都での政局復帰を狙いますが、薩摩藩や会津藩ら公武合体派が京都を抑えているため、なかなか手を出せませんでした。そんな中、藩内部では来島又兵衛を中心とする京都進軍を掲げる進発論と、桂小五郎(木戸孝允)や高杉晋作を中心とする慎重論に藩論が分かれます。慎重論派は開戦することにより朝敵の汚名を着ることを恐れていましたが、進発論派は苦しくなる情勢を一気に打開するために武力に頼ろうと考えていました。当初は慎重論が多数を占めていましたが、ある事件をきっかけに藩論は進発論へと大きく傾いていきます。

池田屋事件がきっかけに

元治元年(1864)6月5日、前年の政変によって京都から追放された尊攘派は、ひそかに京都に潜伏し、挙兵を企てていました。彼らが立てた計画は、京都に火を放ち、その混乱に乗じて公武合体派の中川宮を幽閉、松平容保を殺害後、天皇を長州に連れ帰るという恐ろしいものでした。この動きを察知したのが、会津藩お預かりの新選組です。志士たちの動きを知った新選組は、一斉捜索をした結果、旅宿池田屋を突き止め、これを襲撃しました。この「池田屋事件」によって、宮部鼎蔵(肥後)や望月亀弥太(土佐)など尊攘派は多くの有力志士を失います。長州藩も、松下村塾で四天王と呼ばれた吉田稔麿らが討死となりました。かねてより藩主・毛利慶親父子と三条実美ら公卿の罷免を訴えるための上京を準備していた長州藩内の進発派は、この事件に激怒。ついに京都への出兵を決断したのです。

蛤御門で激突!長州VS会津・薩摩

蛤御門の弾痕
現在も蛤御門に残る弾痕から、戦いの激しさが伝わりますね。

上京した長州軍は京都を包囲するように陣を張り、朝廷へ罷免嘆願を繰り返します。しかしこれを受け入れてもらえず、朝廷からの退去命令を長州軍が拒否したことで両陣営は決裂。7月19日、ついに蛤御門で長州軍と会津を中心とした幕府軍が衝突しました。

薩摩藩の介入で戦局が変わった!

蛤御門で激戦が繰り広げられる中、長州藩の猛将・来島又兵衛の隊は、筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入し、側面から会津藩を襲撃。戦局は長州藩が優勢となります。しかし、ここで西郷隆盛率いる薩摩藩兵が到着。薩摩藩は諸藩の中でも特に武力に優れた藩であったため、長州藩は押し戻されます。さらに来島又兵衛が狙撃され、自決したことで一気に戦局は会津・薩摩藩側に傾きました。別働隊の真木和泉が率いる長州軍も越前藩兵を破ることができず、長州藩の主導者の一人である久坂玄瑞も鷹司邸で自決。長州藩は藩邸を焼き、伏見などを経由しながら落ち延びていきました。こうして禁門の変は、長州藩の惨敗に終わったのです。また、この戦いによって京都の市街は火の海になり、市民たちにも多大なる被害を残しています。

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大河ドラマ「八重の桜」より ©NHK

”朝敵”となった長州藩

禁門の変で敗れた長州藩に対し、この機を逃すまいと追い打ちをかける幕府は、御所に向かって発砲したことなどを理由に朝廷から長州追討の勅許を得ると、長州征伐を宣言。こうして朝敵とみなされた長州藩でしたが、さらに、翌月には前年の下関戦争の報復としてアメリカ・フランス・イギリス・オランダによる四か国連合の攻撃を受けます。反撃した長州藩でしたが、圧倒的な戦力差の前に降伏。こうした内憂外患の連続により、この時期の長州藩はまさに滅亡の危機に陥っていたのです。

薩賊会奸の感情を持つ長州

蛤御門

禁門の変で大きな打撃を受けた長州藩は、政変の主導者であり、禁門の変での闘争相手となった会津、薩摩藩に大きな憎しみを抱くようになります。長州藩士の中には、履物に「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」と書きつけ、踏みつけるようにして歩く者もいたのだとか。そんな長州藩でしたが、後に薩摩藩と「薩長同盟」を結び、ともに倒幕を成し遂げることになります。こうした目まぐるしい政局の変化が、幕末の面白さのひとつだと言えるでしょう。

 

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