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【尾張の大うつけと呼ばれた男】織田信長の幼少期にまつわる逸話

【尾張の大うつけと呼ばれた男】織田信長の幼少期にまつわる逸話

戦国時代には魅力的な武将が多くいますが、その中でもダントツの知名度と人気を誇るのが織田信長です。信長は天下統一まであと少しというところで家臣・明智光秀から裏切られ、本能寺の変で自害しました。徳川家康・豊臣秀吉と共に戦国三英傑の一人に数えられ、「第六天魔王」「大うつけ」などの異名を持つなど、型破りな性格でも有名ですよね。今回は、そんな信長を作り上げた家柄や、幼少期の逸話について解説します。

織田信長の生まれと幼少期

織田信長といえば天下統一に向けて突き進んでいた頃が有名ですが、そもそもどのような環境で育ったのでしょうか。まずは、信長の家柄や生まれについて見ていきましょう。

織田氏の分家の子として生まれる

「津嶋天王祭り」の浮世絵
「津嶋天王祭り」を描いた浮世絵。信長は尾張国で生まれました。

信長は天文3年(1534)尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として生まれました。信長が生まれた弾正忠家は、尾張下四郡の守護代だった清洲織田氏(大和守家)に仕える分家でしたが、信秀の代から主家を圧倒するほどの力をつけ、信長が生まれたときにはすでに下尾張を代表して、隣国と渡り合っていたといいます。
生まれながらにそれなりの地位を約束されていた信長は、2歳のときには那古野城主になっています。現代でいうところのサラブレッドだったのですね。
そんな信長の幼名は「吉法師」といい、その型破りな性格に似つかわしくない名前でした。

尾張の大うつけと称される!

ひょうたん
ひょうたんやわらじを腰にぶら下げた、風変わりな青年でした。

幼少から青年期にかけて奇天烈な行動が多かった信長は、「尾張の大うつけ」と呼ばれていました。入浴時に着る湯帷子(ゆかたびら)を日常から着用し、まげは結わずに派手なひもで髪を結び、腰には帯代わりの縄を巻いて複数のひょうたんやわらじをぶら下げていたのだそうです。

もちろん、信長がうつけ者と呼ばれた原因は外見だけではありません。寺で学問を習う際は真面目に話を聞かず、食事のときには他人のものを奪い、街中では柿や瓜をかじりながら歩いていたといわれます。信長は身分にこだわらず町の若者たちと戯れていたようで、武士の息子という立場を考えると、これがいかに風変わりだったかは想像に難くありません。一緒に群れていた若者にとっては、もしかしたら「分け隔てなく接してくれる良いヤツ」だったのかもしれませんね。

語り継がれる信長の逸話とは?

信長の逸話は他にもいろいろ残されています。どれも信長らしさを感じる豪胆なエピソードといえるでしょう。

徳川家康との出会い

信長は後の徳川家康である松平竹千代と共に幼少期を過ごしており、これが後に同盟関係へと発展していきます。
家康は天文11年(1543)に戦国大名・今川義元配下の三河国岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれました。人質を要求され今川家に向かった家康ですが、その道中、広忠の後妻の父・戸田康光の裏切りによって拉致され、敵方の織田家に送られたといわれています。ただし、最近ではこの説を覆す研究もあり、信秀に降伏した広忠が最初から人質として家康を織田家に送ったのが真実とされているようです。

人質として織田家にやってきた家康ですが、その際、信長がのぞきに行ったという逸話があります。常識に囚われない信長のことなので、どんなヤツがやってきたのかと気になったのかもしれませんね。ただし、記録が残されていないため、この時の二人に親交かあったかどうかは定かではありません。二人の交流については、永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」以降が確実といえそうです。

父・信秀の死

織田信秀
信長の父、織田信秀の葬儀でも奇怪な行動をしました。

信長の有名なエピソードといえば、父の葬儀での一幕でしょう。
信長は自分が喪主なのにもかかわらず葬式に遅刻し、いつも通りの不思議な格好で登場しました。そして父の位牌に抹香を投げつけたのです。この驚くべきエピソードは、近隣の大名らの間でも噂になったのだとか……。一体どのような気持ちだったのか計り知れませんが、普通ならこのような行為は考えられないですよね。

平手政秀の自害

信長には平手政秀という教育係がついていました。信長は幼少期からエピソードに事欠かないほどの傾奇者として知られていたので、教育係の政秀が頭を抱えていたのは容易に想像がつきます。

政秀は、信長が大うつけになってしまったのは自分のせいだと責任を感じ、どうにか気持ちを新たにしてもらいたいという気持ちを込めて切腹してしまいます。さすがの信長もこの事件に大きなショックを受けたようで、今までの行いを反省し、政秀寺を建立して霊を弔いました。残忍とも言われる信長ですが、優しい側面があったのかもしれませんね。

世間を欺く姿だった?

信長は日本の歴史上でも、かなり奇天烈なエピソードを持つ人物といっても過言ではありませんが、これらの行動は世間を欺くための芝居だったとする見方もあります。政秀の切腹もその一環であるという説があるため、それが本当なら恐ろしいほどの策士といえそうです。やがて戦国の世で頭角を現し、天下統一へと突き進んでいく織田信長。型破りでやんちゃな幼少期のエピソードは、彼の魅力をより一層引き立ててくれることでしょう。

 

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