鎌倉幕府第3代執権・北条泰時は、武家政権の法典である「御成敗式目」を制定した人物として知られています。泰時はさまざまな制度を作り人望も厚かったことから、北条家の中興の祖とされました。執権として手腕をふるった北条泰時とはどのような人物だったのでしょうか?
今回は、泰時のうまれから承久の乱まで、泰時による執権政治、御成敗式目の制定とその内容、晩年と最期などについてご紹介します。
うまれから承久の乱まで
泰時は最初から自由に政治を動かしていたわけではありませんでした。まずは、うまれから承久の乱までについて振り返ります。
北条義時の長男として誕生
泰時は、寿永2年(1183)第2代執権・北条義時の長男(庶長子)として誕生しました。母は御所の女房(女官・女性使用人)である側室の阿波局で、出自は不明とされています。『吾妻鏡』によれば、泰時は建久5年(1194)に元服し、初代将軍・源頼朝が烏帽子親になったといいます。また、このとき頼朝の命で有力御家人・三浦義澄の孫娘と婚約が決まり、建仁2年(1202)に結婚。翌年には嫡男・時氏がうまれましたが、妻とはのちに離別し、安保実員の娘を継室に迎えています。
承久の乱後、初代六波羅探題に
建仁3年(1203)幕府内部の政変である比企能員の変に参戦した後、建暦元年(1211)には修理亮に補任。建保元年(1213)の和田合戦では父・義時とともに和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任命されました。建保6年(1218)には侍所の別当に任命され、翌年には従五位上・駿河守に叙位・任官されています。
承久3年(1221)の承久の乱では幕府軍の総大将として後鳥羽上皇方を破り、戦後に設置された六波羅探題北方に就任。京に留まった泰時は、朝廷の監視や戦後処理、また西国の御家人武士の統括にもあたりました。
泰時による執権政治
累進して手腕を発揮した泰時は、やがて執権の地位に就きます。泰時の政治はどのようなものだったのでしょうか?
鎌倉幕府第3代執権に就任
貞応3年(1224)6月、父・義時の急死により鎌倉に戻ると、継母・伊賀の方が実子である北条政村を次期執権にしようと画策し、伊賀氏の変が勃発します。伯母の尼御台・北条政子は政所別当の大江広元と協議し、泰時と叔父・北条時房を執権に任命。泰時は政子の後見のもと家督を相続し、第3代執権となりました。伊賀の方は謀反人として幽閉されましたが、擁立された政村や事件への関与を疑われた三浦義澄の子・三浦義村は不問とされたようです。
こうして泰時は本来継ぐ予定のなかった家督を継ぎ、まだ不安定だった北条氏の幕府権力を固めていきます。泰時は北条氏嫡流家(得宗家)の家政を司る執事「家令」を設け、信任が厚かった尾藤景綱を任命。これは後に得宗・内管領となり、北条氏嫡流家とほかの一族の立場の違いを明らかにするキッカケとなりました。
13人の「評定衆」会議を新設
執権となった泰時ですが、嘉禄元年(1225)6月に広元が死去し、7月には政子がこの世を去るという不幸が続きます。補佐がいなくなった代わりに干渉も受けなくなった泰時は、独自の方針で政治にあたるようになり、今までの専制政治から合議政治へと制度を変えました。叔父・時房と協力して複数執権体制を確立し、執権補佐の「連署」を設置。有力御家人や幕府官僚など11人の評定衆と執権2人を加えた合計13人の評定衆会議を幕府の最高機関とし、政策や訴訟の採決、立法など重要な事柄を相談で決めて公平な政治を目指しました。
名目上の存在になった将軍
幕府内で執権の力が強まると、将軍の状況も徐々に変わっていきます。政子らが亡くなる前の建保7年(1219)、第3代将軍・源実朝が公暁に暗殺され、嘉禄2年(1226)には京から迎えられた藤原頼経が第4代将軍として鎌倉殿に就任しました。これに先立ち、今まで大倉にあった幕府の御所に代わって鎌倉・鶴岡八幡宮近くに幕府が新造されます。この小規模な遷都は、将軍の独裁政権から合議的な執権政治に移行する象徴的な出来事でした。ここで最初の評議が行われた後、賞罰は泰時自身が決定することに決まります。泰時は幕府の最高権威である鎌倉殿を立てて模範的な主従関係を築こうとしましたが、実権を奪われた鎌倉殿は名目上の存在になっていきました。
プライベートでは不幸が続いた
新たな執権政治の方針を定めて活躍した泰時は、プライベートでは辛いことが多かったようです。嘉禄3年(1227)に次男・時実が家臣に殺害され、寛喜2年(1230)には長男・時氏が病で死去。その1ヶ月後には娘が出産した子が10日ほどで亡くなり、娘自身も間もなくこの世を去るなど不幸に見舞われました。
「御成敗式目」の制定
その後、泰時は「御成敗式目」を提案して制定します。後世に残るこの法典はどのようなものだったのでしょうか?
日本初の武家法典の完成
承久の乱以降、各地では盛んに紛争が起こっており、解決のためには新しいルールが必要でした。頼朝時代の先例を基準に解決していたものの、先例だけでは治めきれない時代の変化に対応する必要がありました。そこで泰時は、京都の法律家に貴族の法などを教わり、日夜勉学に励みます。そして連署や評定衆とともに、武士社会の慣習・常識・道徳である「道理」を基準とした基本法典を完成させました。この日本初の武家法典は「式条」「式目」などと呼ばれましたが、のちに「御成敗式目」「貞永式目」と呼ばれるようになりました。
「御成敗式目」の内容とは?
「御成敗式目」は全51ヶ条からなり、それまで公家の法律だったものを武士の実態や習慣に合わせて制定されました。各国の守護を通じてすべての地頭に写しが配布されたことから、地頭は内容を熟知していたようです。この法典により、将軍から与えられた土地は保障され、20年支配すれば誰からも奪われないことになりました。
また御家人同士の裁判では、有力者の口添えや偽物の証拠が排除されるなど公平性を重視。一方、幕府に味方するものは手厚く保護され、敵対するものは徹底的に取り締まる方針だったようです。江戸時代と違い、女性にも大きな権利が認められていたことも特徴の一つといえます。
晩年と最期
政治手腕を存分に発揮した泰時ですが、晩年はどのように過ごしたのでしょうか?
飢饉や後継者問題に対処
晩年の泰時には立て続けに問題が起こりました。寛喜3年(1231)寛喜の飢饉が起こったことから対応に追われ、数年後には比叡山延暦寺を巻き込んだ石清水宮と興福寺の大規模な寺社抗争を鎮圧。仁治元年(1240)には時房が亡くなり、その後は単独で執権職を行いました。
また、仁治3年(1242)に四条天皇が崩御した際は皇位継承問題に介入し、貴族らの反対を押し切って後嵯峨天皇を即位させています。この強引なやり方が一部の公家の反感を招き、のちに彼らとの関係が悪化。しかし、泰時は新天皇の外戚・土御門定通と縁戚関係にあったため、それ以後は定通を通じて朝廷にも権力を広げていきました。
祟りと噂された最期
仁治3年(1242)5月、泰時は出家し、1ヶ月ほど後にこの世を去ります。義時、政子、広元ら北条政権の重要人物も同じ時節に没したことから、世間では後鳥羽上皇らの祟りではないかと噂されたといいます。実際は、京都の公家の日記『経光卿記抄』によれば、過労と赤痢が重なったことが死因のようです。また、皇位継承問題がストレスになったとも考えられています。泰時の死の翌日、北条経時が第4代執権に就任。父を継いで北条執権体制を固めた泰時は、鎌倉時代の名執権と称えられました。
人望厚き、北条氏中興の祖
優れた人格で、武家だけでなく公家からも人望が厚かったといわれる泰時。その治世は善政だったとされ、「御成敗式目」の制定は後世に影響を与えました。父・義時や伯母・政子と同じように北条氏のためには容赦ない面もありましたが、訴訟で負けた武士に親身になったり弱者救済に尽力したりと、人情ある清廉な人物だったようです。北条氏中興の祖ともいわれる泰時が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でどのように描かれるのか注目ですね。
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