歴人マガジン

【松尾芭蕉の弟子】蕉門十哲:おくのほそ道に同行した河合曽良

【松尾芭蕉の弟子】蕉門十哲:おくのほそ道に同行した河合曽良

江戸時代の有名な俳人といえば、真っ先に松尾芭蕉が思い浮かぶのではないでしょうか。現在俳句として親しまれているものは、芭蕉の時代は俳諧と呼ばれていました。芭蕉は独自の「蕉風俳諧」を打ち立てたことでも有名で、諸国を旅しながら紀行文のように俳諧をしたためたのです。『おくのほそ道』『野ざらし紀行』など、紀行俳諧作品として現在でもよく知られていますよね。質素で孤高な雰囲気を持つ芭蕉ですが、彼には多くの弟子がいました。

今回は「蕉門十哲(しょうもんじってつ)」と称される弟子たちや、『おくのほそ道』に同行した河合曽良(かわいそら)について解説します。

松尾芭蕉には多くの弟子がいた

松尾芭蕉
葛飾北斎が描いた、松尾芭蕉です。

俳諧師・松尾芭蕉のことは知っていても、その弟子についてはよく知らないという方も多いのではないでしょうか。芭蕉の弟子にはどんな人物がいたのかご紹介します。

蕉門十哲と呼ばれた10人の弟子たち

芭蕉の弟子には「蕉門十哲」と呼ばれる人々がいました。これは弟子の中でも特に秀でた10人を指したものです。ただしこの10人には諸説あるため、場合によっては人物が入れ替わることがあります。どの説にも入るのが、宝井其角、服部嵐雪、向井去来、内藤丈草の4人とされています。

  • 宝井其角(たからい きかく)…蕉門一の高弟。『枯尾花』などの句集があります。
  • 服部嵐雪(はっとり らんせつ)…古参の高弟で、其角と双璧をなす存在です。
  • 森川許六(もりかわ きょりく)…画の名人でもあり、芭蕉に画を教えたとされます。
  • 向井去来(むかい きょらい)…芭蕉に抜擢され『猿蓑』の編者となった人物です。
  • 各務支考(かがみ しこう)…美濃派の始祖で、全国に蕉風を広めました。
  • 内藤丈草(ないとう じょうそう)…『丈草発句集』などの著書があります。
  • 杉山杉風(すぎやま さんぷう)…蕉門の代表的人物で、経済的に芭蕉を支援しました。
  • 立花北枝(たちばな ほくし)…『おくのほそ道』道中で芭蕉と出会い入門しました。
  • 志太野坡(しだ やば)…『炭俵』撰者の一人。芭蕉の遺書の代筆もしています。
  • 越智越人(おち えつじん)…尾張蕉門の門人で『更科紀行』の旅に同行しました。

杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人の4人に代わって以下の人物を加える説もあります。

  • 河合曾良(かわい そら)…『おくのほそ道』に同行しました。
  • 広瀬惟然(ひろせ いねん)…美濃蕉門の門人で編著に『藤の実』があります。
  • 服部土芳(はっとり とほう)…伊賀蕉門の中心的人物です。
  • 天野桃隣(あまの とうりん)…芭蕉の縁者で甥といわれている人物です。

芭蕉の流れを組む蕉門派

芭蕉には蕉門十哲の他にも全国に門人がいました。近江・伊賀・尾張・加賀などでは門人たちが活躍し、特に芭蕉が旧里と呼んで親しんだ近江は「近江蕉門」を輩出しています。近江蕉門は別名・湖南蕉門ともいい、武士や僧侶、商人、医師、農民に至るまで幅広い人が集まっていたといいます。「三十六俳仙」と呼ばれる弟子の中でも、近江の門人は12人と群を抜いており、芭蕉自身も「行く春を 近江の人と 惜しみける」という句を詠んでいるほどです。
芭蕉が初めて近江膳所を訪れたのは『おくのほそ道』の翌年でしたが、晩年には頻繁に訪問しています。思い入れの深い近江で優秀な門人たちを輩出したことは、芭蕉にとっても喜ばしいことだったでしょう。

『おくのほそ道』と河合曽良

芭蕉の代表作といえば『おくのほそ道』ですよね。この長い旅には同行者がいました。それが弟子の一人である河合曽良です。

松尾芭蕉の代表作『おくのほそ道』

西行法師
江戸時代に菊池容斎によって描かれた「西行法師」。芭蕉は彼を崇拝していました。

『おくのほそ道』は元禄15年(1702)に発行された紀行俳諧で、日本の古典文学では代表的な紀行作品です。僧侶であり歌人の西行を崇拝していた芭蕉は、彼の500回忌となる元禄2年(1689)に門人・曾良を連れて江戸を発ちました。奥州・北陸道などを巡り、全行程は約600里(2400キロメートル)にも及んだといいます。約150日間で東北・北陸を回ったあと、元禄4年(1691)に江戸に帰還。この旅の記録は、同行した曽良の随行日記にも記されています。

芭蕉の弟子・河合曽良

奥の細道行脚之図
「奥の細道行脚之図」左が芭蕉で、右が曽良です。

河合曽良は信濃国の下桑原村(長野県諏訪市)で生まれました。幼名は与左衛門でしたが、6歳で両親が亡くなり、母の兄のもとで養われ、その後母方の親戚の養子となったため名を岩波庄右衛門正字(いわなみしょうえもんまさたか)にあらためます。しかし、12歳の時にはこの養父母も亡くなってしまい、伊勢国の住職である深泉良成に引き取られました。相次ぐ父母や養父母の死に向き合い、つらい幼少期を過ごしたようです。

その後、長島藩主・松平康尚に仕え河合惣五郎を名乗るようになると、官職引退後は江戸で神道や和歌を学び、松尾芭蕉の門にも入りました。曽良というのは俳人としての彼の名です。こうして元禄2年(1689)には『おくのほそ道』の旅に随伴し、その名を歴史に残すことになりました。

『曾良旅日記』について

曾良旅日記
『曾良旅日記』、奥州行脚出立日の記録です。(天理図書館 綿屋文庫蔵)

曽良の著書には『曾良旅日記』があります。これは元禄2年(1689)から元禄4年(1691)の日記を中心とした覚え書きで、『おくのほそ道』のような情緒的な表現は見当たらず、地名・区間・距離などが正確に書きとめられていたようです。昭和18年(1943)に山本安三郎が出版したことによってその全貌が明らかとなり、それ以降『おくのほそ道』研究に貢献することとなりました。

『おくのほそ道』本文の虚構や、稀少ともいえる発句の初案、また推敲(すいこう)の過程などは、随伴した曽良だからこそわかる貴重なものといえるでしょう。これらは、芭蕉がどのような意図や意識を持って、『おくのほそ道』を制作していたのかを考察する上で必要不可欠な資料となりました。

弟子に愛されていた芭蕉

蕉門十哲をはじめとし、全国に多くの弟子がいた松尾芭蕉。彼が死没した元禄7年(1694)10月12日の葬式には、300人もの門人が集まったといいます。この数字を見るだけでも芭蕉がどれほど慕われていたかが分かりますよね。それだけ多くの弟子に慕われた芭蕉が『おくのほそ道』に同行させた河合曽良は、きっと特にお気に入りのお弟子さんだったのでしょう。彼の忌日は生前の号から「桃青忌」とも呼ばれ、現在も多くの方がその死を偲んでいます。

 

関連記事:
【元禄文化を代表する人物がわかる】俳句や浄瑠璃、歌舞伎まで!
【土方歳三と俳句】新選組きってのモテ男の知られざる素顔に迫る
【 願わくは 花の下にて】最期まで美しく生きた佐藤義清こと西行の和歌

Return Top