歴人マガジン

【中国の歴代王朝に巣食った】宦官(かんがん)は、どうして生まれたのか?!

俗に「四千年の歴史」を誇るといわれる中国大陸。その歴史を舞台にした時代劇も数多い。『三国志 Three Kingdoms』(後漢時代)、『昭王~大秦帝国の夜明け~』(戦国時代)、『琅琊榜』シリーズ(魏晋南北朝時代がモデル)、『月に咲く花の如く』(清代)、『ミーユエ 王朝を照らす月』(春秋時代=2018年11月13日よりチャンネル銀河で放送)などから、その興亡史の奥深さや長さを感じさせられる。

清代、西太后と宦官たち

今回は、それら数々の作品に必ずといって良いほど登場する「宦官」(かんがん)のことを記したい。宦官とは、去勢(性器を切除)した男性のことで、皇帝や后たちの身の回りを世話する官吏。本来、彼らは「召使い」であり、言い換えれば「奴隷」だった。生殖機能を奪われ、家族を持つこともできない宦官は本来、歴史の表舞台に出ない存在でなければならなかった。

しかし、実際の宦官は違った。皇帝に最も近いところにいた彼らは、皇帝の手足として働き、時に「頭脳」となって政治や軍事を動かし、また国家の存亡にも関わる者が多かった。なぜ、彼らはそれほどまでの存在となりえたのだろうか。

宦官は、ドラマ「ミーユエ 王朝を照らす月」にも頻繁に登場する(写真中央) ©東陽市花児影視文化有限公司

宦官のはじまり ~世界中にいた宦官~

宦官という存在は、もともと男性の奴隷の性器を切り落とす「刑罰」(中国では宮刑と呼んだ)から始まったといえる。後に異民族に限らず、捕虜や罪人に対して行なわれるようになった。刑罰の種類には鼻削ぎや耳削ぎ、顔面への入れ墨などがあったが、その中でも打ち首に次ぐ重い罰が宮刑だった。

時の権力者は、その形で生き残った者らを宮殿に入れ、労働力として活用したのだ。子孫を残せなくなった彼らの仕事場としては最適だった。権力者の宮殿は広く、労働力が必要だったこともある。発祥地は分からない。中国だけの文化ではなく、古代ギリシアやローマ帝国、オスマン帝国、古代インカ帝国、朝鮮王朝などにも宦官は存在したという。

宦官を寵愛したとされる、アレキサンダー大王(イタリア・ポンペイの壁画より)

マケドニア王国のアレクサンダー大王(アレクサンドロス3世)が生まれたのは、ちょうど中国の戦国時代にあたる紀元前356年だ。「史上最大の帝国」を築き上げたことで知られる、その大王のもとにも宦官がいた。彼は容貌の美しい男性や若い宦官のバゴアスを常にそばに置き、重用していた。大王は32歳で急死したこともあるが、2人の妻との間に儲けた子は2人だけだったことから、男色家ともいわれている。

古代中国の著名な宦官たち

さて、中国における著名な宦官の元祖といえるのが、豎刁(じゅちょう)という人物である。紀元前650年ごろ、春秋時代の斉の桓公(かんこう)に仕え、みずから後宮の管理を願い出た。そのままでは後宮に入ることは許されないので、自宮(じきゅう=自分から性器を切り落とすこと)して宦官になったという。この頃、すでに宦官制度は定着していたが、彼のように望んで宦官となる者も現れたのである。

始皇帝の御車に侍る宦官・趙高

紀元前200年代、秦の始皇帝に仕えて権勢を振るったのが趙高(ちょうこう)という宦官だ。始皇帝の存命時は忠実に仕えたが、2代目の胡亥(こがい)の政権下で、趙高は秦帝国を完全に私物化して政治を腐敗させる。

紀元前206年、秦は項羽や劉邦たちによって滅亡に追い込まれるが、その最大の原因をつくった張本人が、趙高であった。大多数の宦官は奴隷や召使いの立場のまま一生を終えたが、皇帝やその寵妃らに気に入られて重用され、権勢を振るう者も多くなった。漫画『キングダム』にも登場する趙高こそ、まさにそのような悪徳宦官の象徴といえるだろう。

秦が倒れ、前漢の時代になると有能な宦官も現れた。武帝(前漢の7代皇帝)に仕えた司馬遷(しばせん)は、将軍・李陵(りりょう)を擁護したことがきっかけで罪人となり、宮刑に処されてしまった。しかし、彼はその後、屈辱に震えながらも宦官として生きながらえ、不朽の歴史書である『史記』を完成させた。

紙の発明者と伝わる宦官・蔡倫

また前漢から後漢に変わった紀元2世紀のはじめに、「紙」を発明した蔡倫(さいりん)という宦官がいた。彼は潔癖かつ有能な官僚であり、宮中のあらゆる備品を製造する監督を任されていたが、ある時、樹皮や麻の切れはしから「紙」を作り出したという。それまで、書物や文書といえば竹簡や絹の布に記されていたから、そこに「紙」が登場して「記録手段の革命」が起きたのである。蔡倫が作った紙は、現在のように高品質なものではなかっただろうが、それは時代ごとに改良が繰り返され、普及していった。

後漢の末期、つまり「三国志」の時代には、曹騰(そうとう)という宦官が現れた。彼こそ、英雄として名高い曹操(そうそう)の曽祖父だ。宦官ゆえに実子が作れなかったが、豪族の夏侯氏から養子(曹嵩)を迎え、子孫を残したのである。

三国志に登場することで名高い十常侍ら

この後漢時代には十常侍という宦官グループが政治を乱したことで知られる。中でも張譲(ちょうじょう)趙忠(ちょうちゅう)は霊帝に「わが父、わが母」と呼ばれるほどの寵愛を受け、権勢を欲しいままにした。それが原因で宮中に争いが起き、地方豪族である董卓(とうたく)らが兵を挙げ、動乱の時代へと突入。後漢は一気に衰退し、滅亡への道を歩み始める。

このとき、宮中へ入った袁紹(えんしょう)らが宦官を皆殺しにしたというが、それでも生き残った者はいたらしい。三国時代の次の南北朝時代、隋や唐の時代になって、宦官は再び跋扈(ばっこ)するようになった。その数も数千人から数万人へと爆発的に増えていくのである。

時代はずっと下り、清の時代には面白い宦官が現れた。董海川(とう かいせん=1797? ~1882年)という人物である。なんと武術家として名を成し、太極拳と並ぶ中国武術の八卦掌(はっけしょう)を創始。その腕前を認められ、清王朝に仕えたという。伝承によれば、実は密かに清王朝打倒のため、普通の宦官として皇帝の暗殺を企てていたが、その腕前がバレてしまい、宮廷に住みながら悲願が果たせなくなったのだという。

最後の王朝・清時代の宦官

その清朝も1911年に滅びた。最後の皇帝・溥儀(ふぎ)とともに、紫禁城にいた宦官たちの数は1000名を超えたという。その時に城から追い出され、ひっそりと余生を過ごした宦官たちの中には1990年代まで存命した人もいた。中国最後の宦官・孫耀庭(そん ようていは1996年12月18日、北京の広化寺で94年の生涯を閉じている。ほんの最近まで、宦官はこの世に存在していた。そのことを思うと、なんだか不思議な気持ちになりはしないだろうか。

日本には輸入されなかった宦官制度

日本は、昔から中国よりさまざまな文化を導入したが、不思議とこの「宦官」の制度は導入されなかった。その理由は不明だが、たとえば江戸時代の江戸城・大奥には、初期の頃に男性が出入りして問題になることもあった。しかし、「去勢してしまおう」という結論にはならなかったようだ。

ただ一応、刑罰や宗教的な動機から去勢が行なわれてはいた。江戸時代の僧、了翁道覚(りょうおう どうかく)は性欲を断つため、33歳の時に自ら男根を切ってしまった。2年ほどは傷口が治らなかったという。想像を絶する苦しみだったと思われるが・・・その後も45年間を生き、1707年に78歳の天寿を全うしている。海の向こうにいた多くの宦官らとは、動機も生き方も、まるで違ったのである。

2018年11月13日よりチャンネル銀河で放送される『ミーユエ 王朝を照らす月』は、秦の始皇帝の高祖母(宣太后)を主人公とした中国ドラマ。宦官たちも頻繁に登場する。彼らに注目してみるのも、また面白いのではないだろうか?

文・上永哲矢

「ミーユエ 王朝を照らす月」チャンネル銀河で放送スタート!

放送日:2018年11月13日(火)放送スタート 月-金 夜11:00~
リピート放送:2018年11月14日(水)放送スタート 月-金 午前9:30~
番組ページ:https://ch-ginga.jp/feature/miyue/

 

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