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【 12/24までの期間限定公開! 】大隈重信、伊藤博文、陸奥宗光が住んだ屋敷に行ってみよう!

明治維新から150年を迎えた今年。去る10月23日に「明治150年記念式典」が東京で開かれたことは記憶に新しいところ。それと時を同じくして、神奈川県大磯町で国が整備を進める「明治記念大磯邸園」の一部公開が始まりました。


大磯には明治18年(1885)に海水浴場が開設され、鉄道や大磯駅も整備されたため、別荘地として人気でした。明治政府の要人たちが邸宅を構え、「政界の奥座敷」と呼ばれた歴史的な名所。特に歴代の総理大臣だけで8人が居を構えたことで知られています。

そして、現在「明治記念大磯邸園」として整備されている海岸沿いの一角に別荘を持っていたのが伊藤博文大隈重信陸奥宗光、西園寺公望でした。今回公開となったのは、うち3ヵ所で、旧伊藤博文邸(滄浪閣)の外観、旧大隈重信邸および旧陸奥宗光邸の内部と庭園です。

10月23日に行なわれた記念公開式の一コマ。大隈重信邸の前で、国土交通省や大磯町の関係者によるテープカット。

関東大震災に耐えた! 旧大隈重信邸

まず、見て頂きたいのは〈旧大隈重信邸〉。大隈重信(おおくましげのぶ)といえば、明治15年(1882)に早稲田大学の前身となる東京専門学校を創立し、内閣総理大臣を二度(第8代・第17代)も務めた人です。


総理大臣として日本初の政党内閣を組織するのが明治31年ですが、その前年の明治30年(1897)に大磯に別邸を建てました。こちらは貴重な神代杉をふんだんに用いた「神代の間」。9帖の和室で、大隈が書斎として使っていたそうです。


社交家で、お客を迎えるのが大好きだった大隈が宴会をよく開いたという大広間「富士の間」。広さは26帖。家屋は一部増改築がされているものの、住居部分はほぼ往時のままだとか。ここには大隈の演説の肉声を収めたレコードがあり、ボタンを押すと聴くことができます。


庭園には大隈が愛用していたと伝わる五右衛門風呂の浴槽がありました。こういった遺品は、まさに生活の場ならではという感じがします。ただ、大隈は明治34年(1901)に別荘を国府津へ移したため、この建物は古河財閥(現在の古河電気工業)に譲渡され、それ以降は同社が管理しています。関東大震災(1923年)のとき、周囲の別荘群が被害を受けたなかで、旧大隈邸は見事に耐え抜き、往年の面影を今に伝えているのです。

旧陸奥宗光邸

続いては、隣接して建っている〈旧陸奥宗光邸〉へ。陸奥宗光(むつむねみつ)といえば、あの坂本龍馬の同志で、海援隊のメンバーとして活躍した幕末志士として有名ですね。明治になってからは外交官として活躍。特に第2次伊藤内閣においては外務大臣に就任し、不平等条約である治外法権の撤廃を実現。「カミソリ大臣」の異名をとりました。

竹林や果樹園、松林を有する当時の日本庭園が現存しており、庭園の木々の合間から仰ぎ見る建物の姿が見事です。

その陸奥が最晩年となる明治27年(1894)、土地を取得して別荘を構えたのが、ここ大磯です。長年の激務のためか肺結核を患い、その療養のためだったそうです。陸奥はこの風光明媚な別荘を気に入り、のんびりと過ごしたようですが、病はよくならず、3年後の明治30年(1897)に54歳で亡くなりました。


陸奥の没後、陸奥の二男を養子としていた古河市兵衛(古河財閥の創業者)が、当別邸を譲り受け、古河家の建物として使うことになりました。

大正12年 (1923) の関東大震災のとき、この建物はかなりの損害を受けてしまいます。そこで古河は以前の建物を栃木県の足尾銅山へ移し、元のものに近い姿で建て直しました。現存する入母屋の数寄屋風の建物は「聴漁荘」(ちょうぎょそう)と名付けられました。海辺近くの別荘で、昔は地引き網漁が盛んだったことが由来とか。


浴室には、陸奥の時代のものといわれるシャワーが今も備えられています。浴室と化粧室の間の床張りは、隣接する旧大隈邸の廊下と同じデザインであることから、同じ職人が手掛けたようです。当時のシャワーは、こういう輪のような形をしていたのですね。先程の大隈の釜風呂もそうですが、こうした生活の跡があると、歴史上の偉人がグッと身近になる感じがします。

陸奥邸の一角に、大日本帝国憲法(複製)が。錚々たる名前が並びます。

滄浪閣(旧伊藤博文邸)

旧陸奥邸を出て、建物をひとつ挟んだ隣の敷地へ。ここにあるのが、旧伊藤博文邸の〈滄浪閣〉(そうろうかく)です。幕末期、長州藩士として活躍した伊藤は、明治18年(1885)に初代総理大臣に就任。立憲政治の黎明期に大きな役割を果たします。


それから5年ほど後の明治23年頃、すでに別荘を持っていた小田原へ行く途中で立ち寄った大磯の風景が気に入り、この地に別荘を持つことを決めます。梅子夫人の病気療養のためでもあったようです。

伊藤は別荘が完成すると、それまでの小田原の別荘「滄浪閣」を引き払い、大磯にできた別荘を「滄浪閣」と名づけました。明治30年(1897)に本籍を東京から大磯町に移したため、滄浪閣は別荘ではなく本邸になったのです。


今回は、残念ながら外観のみの公開で、内部には入ることができません。敷地は5500坪あり、東側に和館、西側に洋館が建っていましたが、残念ながら関東大震災(1923年)で建物は倒壊。その後、再建されて朝鮮の李王家に譲渡され、その別邸となりました。

その後は米軍の接収、レストランなどを経て民間企業の所有となっていましたが、現在その営業も終了。伊藤時代からは、だいぶ改築されてはいますが、洋室棟と和室棟に当時の面影が残るそうです。隣にある「旧西園寺公望邸跡」もあわせて、近い未来に内部公開される日が楽しみです。


内部が見られない代わりに、「滄浪閣」にあった絵襖(明治天皇からの下賜品)が、上に載せた「旧大隈邸」の大広間に飾られています。日本画家・湯川松堂の筆による「源義家後三年の役」「静御前の舞」「太田道灌鷹狩り」「野見宿禰の相撲」は一見の価値があります。

大磯に住んでいた伊藤博文のもとには政界・財界の来客が絶えず、地元は大いに賑わったそうです。日ごろの伊藤は着物に帽子姿で、近所をよく散歩したとか。知り合いの農家に立ち寄って野菜のでき具合を聞いたり、大磯海岸で地引き網を見物したり、祭があると、お酒を差し入れするなど、地元の人たちと親しく付き合っていたのだそうです。なんだか親しみが湧きますね。

大隈重信と伊藤博文。この両雄は政界ではライバル同士で、あまり仲が良くなかったといわれますが、大磯ではこうして一緒に写真に収まる一幕もあったようです。

 


会場では、偉人と記念撮影ができる、こんなパネルや地元大磯の特産品や、「明治150年」と「大磯」のロゴが入ったグッズなども販売されていましたよ。ぜひこちらも、ご注目あれ。

個人や企業の所有となっているため、これまでは見学ができなかった偉人たちの別荘群。地元でも期待の声が高まっているといいます。大磯町の中﨑久雄町長は「この大磯邸園は、町民の心のふるさとともいうべき場所です。町民の皆さんはじめ、歴代の町長みんなが大切にしてきました。その熱い思いを忘れず、日本の歴史遺産として将来に残します」と抱負を語っておられました。

国土交通省によれば、今後も様々な整備が行なわれるとか。その手始めとして、今回の庭園一般公開を開始したそうです。これからの取り組みにも期待したいですが、やはり整備には時間がかかりますから、次にいつ見られるチャンスが来るか分かりません。まずは、今回の貴重な記念公開をお見逃しなきよう!

公開はクリスマス・イブ(12月24日)まで! 急いで申し込みを。

また、この記事で紹介した「旧大隈・旧陸奥邸の建物内および旧伊藤邸の外観」の見学には、2週間前までの事前申し込みが必要です(ガイドツアー付きで各日5コマ。所要時間約90分)。旧大隈・旧陸奥邸の庭園のみの観覧であれば、入場自由(申込不要)です。詳しい情報およびお申込みは、以下のサイトからどうぞ!

『明治記念大磯邸園』明治150年記念公開 邸宅ガイドツアー 案内サイト
https://meiji-ooiso.com

 

文・上永哲矢

 

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