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【日本体育の父:嘉納治五郎】柔道の創始者の偉大なる功績

【日本体育の父:嘉納治五郎】柔道の創始者の偉大なる功績

学校の授業の中で「体育」が一番好きだったという方も多いのではないでしょうか?年代によって少しずつ内容は変わっても、学校の授業では必ず行われていますよね。そんな、日本人にとってなじみ深い体育ですが、古くからあったわけではなく、近代になってつくられた概念なのです。これをつくり出したのが嘉納治五郎(かのう じごろう)という人物です。柔道の創始者としてご存じの方も多いと思いますが、実は柔道という枠を超えて日本のスポーツ史で大きな功績を収めた人物であり、2020年の東京オリンピック・パラリンピックを考える上でも無視できない存在なのです。2019年大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』では、役所広司さんが演じることでも話題になっていますよね。

そこで今回は、嘉納が柔道を創始したきっかけや教育者としての働き、日本スポーツのために尽力した功績についてご紹介します。

柔道創始に向けて!治五郎の歩み

柔道は現在では日本を代表する武術となっていますが、これをつくり出したのが嘉納でした。嘉納が柔道を創始するに至ったきっかけや働きについて見ていきましょう。

柔術を学ぶことを決意

20代の嘉納治五郎
嘉納が20代の頃の写真です。

嘉納は万延元年(1860)に摂津国御影村で生まれます。摂津国御影村は現在の神戸市にあたり、実家は有名な酒造家でした。幼少期の頃、明治政府から招へいされた父とともに上京した嘉納は、書道や英語などを東京で勉強します。この頃の嘉納は虚弱な体質で、武道よりも学問に向いていると思われていました。しかし彼は非常に負けず嫌いな性格で、強い者に力で負かされるのをとても悔しく思っていたのです。そこで出合ったのが、古くから日本に伝わる柔術という武術でした。柔術の中の、力の弱い者が剛力な者に勝てるという特徴に魅せられた嘉納は柔術修行に打ち込み、めきめき成長していきます。

講道館を設立するまで

柔道

柔術の修行をする一方、嘉納は東京大学を卒業するほどの秀才でした。彼はその優れた頭脳を柔術にも応用します。柔術の技術から有用なものを抜き出し、自らの理論を確立して、新しい独自の武道である柔道をつくり上げました。彼はそれを人々に広めるために、また技術の研究を行うための道場である「講道館」を設立。優れた頭脳によって古武道に合理的な理論を持ち込んだ嘉納は、日本の武術史においても特筆すべき人物でした。

古武道の発展に尽力!

彼の旺盛な研究欲は柔道だけにとどまりません。剣術や棒術などの他の古武道を研究し、理論化しようと考えます。自らが柔術の技術を理論化して柔道を生み出したように、他の武道の技術を理論的に研究することが古武道の発展になると考えたのです。そこで多くの流派を招き「古武道研究会」を開きます。独自の方法で武道を理論化し研究した彼の影響を受け、優れた武術家が多く生まれました。

教育者としても数々の功績を残す

柔術を理論化して柔道の創始者となった嘉納でしたが、彼の功績はそれだけではありません。独自の教育観をもった嘉納は多くの学校の創設を果たし、日本の教育界にも大きな影響を与えました。

多くの学校の創設を果たす

教育者としても優れていた嘉納は学習院の教頭、東京高等師範学校、旧制第五高等中学校などの校長を務めます。彼は武術を学ぶ上で多くの概念を培いました。そして柔道の精神として「精力善用」「自他共栄」という思想をもとにして、旧制灘中学校、日本女子大学などの創設に関わります。共に、現在でも有数の名門校として知られる存在になりました。嘉納は学校教育においても優れた指導者だったといえるでしょう。

中国人留学生の受け入れにも貢献

魯迅
中国の小説家・思想家として知られる魯迅も嘉納の元で学びました。

嘉納は外国語学校「弘文学院」を開き、英語教育にも力を入れました。また留学生の受け入れが文化の進歩、教育の活性化に重要と考えた嘉納は、外国人留学生も積極的に受け入れます。特に中国人留学生の受入れに努め、後に有名になる魯迅(ろじん)も嘉納の元で学びました。

日本スポーツの発展へ向けて

嘉納は教育における体育の重要性にも注目していました。自ら柔術を学び柔道を興した経験からも、優れた人間性を培うためには机に向かう学問だけではなく、スポーツや体育が欠かせないと考えていたのです。身体を動かす体育の教育的価値を見いだしていた嘉納は、どのような活動をしたのでしょうか。

国際オリンピック委員となる

嘉納は日本でのスポーツ振興のため、世界的なスポーツの祭典であったオリンピックに着目します。彼の思惑は当時アジアに委員を持たなかった国際オリンピック委員会の意向とも一致し、嘉納は東洋人として初のIOC委員となりました。嘉納はそれまで日本人が参加したことがなかったオリンピックに日本人選手を送り込むために尽力します。その結果、大正元年(1912)のストックホルムオリンピックではマラソンの金栗四三と短距離の三島弥彦が、日本人選手として初参加を果たしました。彼は日本のオリンピック史においても重要な人物でした。

大日本体育協会を設立!

和服の嘉納治五郎
「日本体育の父」と呼ばれる嘉納。スポーツの普及に貢献しました。

嘉納はオリンピック委員を務めただけでなく、明治44年(1911)に大日本体育協会(現・日本体育協会)を設立します。自ら会長になった嘉納は日本スポーツ、体育教育の発展に努めたのでした。アマチュアスポーツを統括するこの協会は各種の大会を開き、日本のスポーツの普及に大きく貢献します。その結果、嘉納は「日本体育の父」と呼ばれるようになりました。

学校教育・体育教育に力を入れた

嘉納は優れた理論を展開して、それまで古武術の一つだった柔術から合理的な柔道を創始します。それだけでなく、独自の教育論によって、スポーツ・体育が学校教育にもたらす影響についても重要視していました。日本は2020年に東京オリンピック・パラリンピックを控えていますが、これまでご紹介してきたようにオリンピックへの日本人選手の初めての派遣を実現させたのも嘉納の功績が大きかったのです。嘉納の教育者としての貢献があったからこそ、今日に至る日本スポーツの発展があるといえるでしょう。

 

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