近代郵便制度の創設者として知られる前島密。今でも使われている「郵便」「郵便切手」などの用語は、前島が選択したものです。現在、通信は手軽なものとなりましたが、そこに至るまでにはさまざまな苦労があったようです。「日本近代郵便の父」と呼ばれる前島は、どのような人生を歩んだのでしょうか?
今回は、前島の幕臣としての活躍、郵便制度を確立させるまでの経緯、通信・交通事業への尽力、前島にまつわるエピソードなどについてご紹介します。
幕臣としての活躍
前島は幼いころから聡明な人物だったようです。うまれから幕臣としての活躍について振り返ります。
学問を志して、江戸へ
前島は、天保6年(1835)越後国頸城郡下池部村(現在の新潟県上越市)の農家にうまれました。藩医の叔父の影響で医学を志すようになり、高田藩の儒学者・倉石典太の私塾に入塾。その後、オランダ医学を学ぶために単身江戸に向かいました。嘉永6年(1853)にペリーが来航すると、国防を考察して建白書を書こうと考え、港湾を見て回る旅に出ます。この経験によりもっと勉強して実力をつけようと考えた前島は、兵法・砲術、数学、機関学などを学び、商船界にも目を向けました。
京都見廻組・前島錠次郎の養子に
安政6年(1859)前島は函館で航海測量や帆船の運転、日本周回の航海実習を経験します。その後は外国奉行組頭・向山栄五郎に随行して長崎に行き、宣教師から英数学を学んで、長崎奉行所の英語稽古所の学頭・何礼之(がのりゆき)の家塾の塾長になりました。30歳のころには薩摩藩から招かれ開成学校の英語教授に就任しましたが、兄の死を機に帰郷。江戸に戻った前島は、慶応2年(1866)、京都見廻組・前島錠次郎の養子として幕臣になり、近隣の若者に学問を指導するようになります。
「江戸遷都論」と明治新政府
学問の力を買われた前島は、幕府の開成所(洋学教育研究機関)の翻訳筆記方になり、次いで数学教授に就任。また神戸港で税関や保税倉庫の事務を習熟するなど頭角を現しました。慶応3年(1867)、大政奉還により徳川家が静岡に移ると、駿河藩の公用人となり旧幕臣の措置、新藩の経営などを行います。また新政府が実権を持ってからは、大久保利通が建言した大阪遷都に対し「江戸遷都論」を提唱。こうした流れを経て江戸は「東京」に変わり、日本の首都になりました。その後、前島は明治政府の出仕要請により民部省・改正掛に勤務し、鉄道建設の計算書をまとめるなど活躍します。これをもとに、のちに品川~横浜間に鉄道が開業しました。
郵便制度の確立
幕臣として活躍し新政府でも力量を発揮した前島は、その後ついに郵便制度を確立します。
郵便の仕組みに着手する
明治3年(1870)4月、租税権正となった前島は税法改正に取り組み、翌月には駅逓権正兼務を命じられ駅制改革を進めました。このころから前島は通信網の整備について考えていましたが、あるとき政府が官用通信のために飛脚に支払う金額を知り、これを資金にすれば郵便事業を始められると閃きます。前島は具体案をまとめると、郵便創業の建議を行いました。さらに、上野景範に随行しイギリスで近代化した郵便事情を学習。イギリスはすでに近代郵便制度を取り入れ、切手による均一料金制で誰もが低料金で郵便を利用できるようになっていました。前島は郵便局の職員に直接話を聞いたり実際に利用したりと、郵便制度について多くを学び日本に帰国します。
郵便創業と郵便ポストの登場
明治4年(1871)、前島の後任・杉浦譲により官営の郵便事業が開始されました。数か月後に帰国した前島は、郵便規則を整備し全国均一料金制を導入。東京・京都・大阪間の東海道の各宿駅に郵便取扱所(現在の郵便局)が開設され、郵便ポストも設置されました。こうして、郵便業務は宿駅の駅逓業務の一環として行われるようになります。郵便集配員には足が速く地理に詳しい者が選ばれ、配達は郵便が到着すると直ちに行われました。明治5年(1872)には国内に設置されていた外国の郵便局を利用して、外国向けや外国からの郵便物の取り扱いも開始。日米郵便交換条約の締結後、万国郵便連合に加入し、世界の国々とも自由な郵便交換が可能になりました。
郵便為替・郵便貯金の誕生
その後、前島の熱意により郵便為替や郵便貯金のサービスも開始し、欧米にならって新聞雑誌も低料金で取り扱うようになります。当時はまだ貯蓄の風習が乏しかったため、前島は貯金発端金を人々に与えて貯金を促しましたが、なかなか業務は上がりませんでした。しかし前島の努力が実り、やがて貯蓄者数が1万人を突破します。また、明治5年(1872)に宿駅制度が廃止されると、馬車・蒸気船・鉄道などの新しい運送業が誕生。飛脚業者はこれに反発したものの、前島の説得により陸上貨物輸送を担う陸運元会社(現在の日本通運株式会社)を創立しました。
通信・交通事業のさらなる整備
前島は郵便制度の確立後も官僚としてさまざまな事業に尽力しました。その活躍と最後はどのようなものだったのでしょうか?
海運振興政策に尽力する
前島は函館での経験もあり、商船事業の確立の重要さに注目していました。明治5年(1872)に発足させた日本帝国郵便蒸気船会社は失敗しましたが、その後、岩崎弥太郎の三菱商会(郵便汽船三菱会社)を助成して海運振興政策を推進。西南戦争の際には迅速な通信を確保するために飛信逓送制度を設けるなど尽力します。また、大隈重信が私財を投じて開校した東京専門学校(早稲田大学の前身)では評議員となり、のちに校長も務めました。
内閣制度の発足と、逓信省の設立
明治18年(1885)内閣制度が発足し、前島が望んでいた逓信省が新設されます。これは通信・交通全体を統括する中央省庁となりました。このころ電話事業もスタートしており、逓信大臣・榎本武揚からの要請で逓信省の次官となった前島は、民営か官営かで割れていた意見を官営に統一。明治23年(1890)12月に東京・横浜間で電話交換業務が開設され、その利便性が理解されると電話は急速に発展していきました。
「如々山荘」にて隠居
こうしてさまざまな事業に携わった前島は、男爵を授けられ貴族院議員になります。しかし、75歳の頃にはほとんどの職を辞し、思い出が残る九州各地を旅行した後は、神奈川県芦名(横須賀市)に「如々山荘」を設けて隠居しました。大正4年(1915)の80歳の祝寿会では銅像建設の声があがり、100人近い人々から寄付金が寄せられ、逓信省構内に銅像が建てられます。そして大正8年(1919)、84歳でこの世を去りました。墓所は、如々山荘があった神奈川県・浄楽寺の境内にあります。
前島密にまつわるエピソード
前島はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわるエピソードをご紹介します。
初発行以来、1円切手の肖像に
前島は日本の近代郵便制度の父として、1円の普通切手に肖像が描かれています。それ以外にもいくつかの記念切手の肖像となっていますが、1円切手だけは昭和22年(1947)の初発行以来、基本デザインが一度も変更されていません。日本郵便は、今後もこの1円切手のデザインだけは変更しないと公式にコメントしています。
渋沢栄一と近代化を目指した
前島は駿河藩で働いていたころから渋沢栄一と親交がありました。明治政府から出仕を要請されて勤務した民部省・改正掛は、渋沢を中心に近代国家建設の企画立案を行う部署だったため、二人はともに近代化を目指した同志といえるでしょう。また、前島の生家があった上越市下池部には石碑が建てられていますが、碑文「男爵前島密君生誕之処」の書は渋沢がしたためたものです。
電話帳では「248番」
明治23年(1890)に発行された日本初の電話帳は、名前と電話番号が縦書きで掲載された1枚の紙でした。当初は日本を代表する人物ばかりが並んでおり、電話帳に載るのは一種のステータスだったようです。しかし、電話の普及が進むにつれ、徐々に庶民にも広がりました。前島の名は248番として載っていたといわれています。
近代日本のインフラ整備を率いた
郵便制度を作り「日本近代郵便の父」と呼ばれる前島密。彼は郵便事業をはじめとし、新聞、鉄道、電話など、数々のインフラ整備に尽力しました。現在ではごく普通に利用している必要不可欠なサービスの数々は、当時の奮闘があってこそのものといえるでしょう。デジタル化とともに利用機会が減っている郵便ですが、前島の功績を偲びつつ、手紙などをしたためてみるのも良いかもしれませんね。
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