幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第12回のテーマは「新選組の制服羽織」です。
赤穂浪士を模倣した制服
新選組には、制服とされた羽織がありました。テレビや映画などでおなじみのあの羽織です。残念ながら実物は一着も現存しておらず、画像も残っていないため、正確にはどのようなものであったかは、はっきりしていません。
それでも、当時の関係者による証言がいくつかあり、おおよその姿を知ることはできます。たとえば隊士永倉新八の談話をもとに記された『新撰組顛末記』には、次のようにあります。
「羽織だけは公向(おもてむき)に着用するというので、浅黄地の袖へ忠臣蔵の義士が討入りに着用した装束みたようにだんだら染を染めぬいた」
赤穂浪士は実際には「だんだら染め」の装束を着ていませんでしたが、のちに「仮名手本忠臣蔵」として芝居の題材になったときに、黒地の袖と裾に白く山形模様を入れた装束が作られました。それで、武士の鑑とされる赤穂浪士にあやかろうと、新選組は山形模様をあしらった羽織を制服にしたのでしょう。
ただし地の色だけはオリジナリティーを出そうとしたのか、忠臣蔵が黒なのに対して新選組は「浅黄色」であったとされています。この浅黄色というのは当て字で、正しくは「浅葱色」と書く薄い青系の色です。
現代でもよく神社の神主さんがつけている袴の色といえば、わかりやすいでしょうか。なので、時代劇で多く使われる新選組の羽織の色は、少し青が濃すぎる印象です。
なお、山形模様のことを「だんだら染め」と『新撰組顛末記』は表現していますが、本来は「だんだら」というのは山形とかギザギザ模様のことをいいません。正しくは色のついた横縞模様、現代でいうところのボーダー柄のことをさします。
それを永倉か、あるいは談話を記事にした記者が「だんだら」と表現したために、現在までこの部分が一人歩きして、「新選組の羽織はだんだら模様」といわれるようになってしまったのです。このことを新選組ファンの方々には、一応覚えておいていただきたいと思います。
山形模様はどのようなものか
『新撰組顛末記』によれば、制服羽織の山形は袖に入っていたことになっていますが、ほかに裾にも入っていたとする説があります。
新選組が屯所にしていた京都壬生の八木家の為三郎少年が、晩年に語った談話が『新選組遺聞』(子母沢寛著)に収録されていて、そこでは羽織のことがこのように記されているのです。
「隊服というのがありました。浅黄のうすい色のぶっさき羽織で、裾のところと、袖のところへ白い山形を赤穂義士の装束のように染抜いてあるのですが、大きな山で袖のところは三つ位、裾が四つか五つ位でした」
ここでは山形の数まで詳細に記されていて、袖と裾の両方に入っていたとされています。実際に羽織を見たことのある八木為三郎が証言しているのですから、基本的には信頼の置ける情報でしょう。
ところが、『新選組遺聞』はのちに子母沢寛自身の手で『新選組始末記』、『新選組物語』とともに合本され、合本版の『新選組始末記』として再編集されるのですが、そこでの為三郎談話では「隊服というのがありました」に続く羽織の詳細がなぜかカットされているのです。
理由はわかりません。深読みをすれば、デザインのことを為三郎は特に語っていなかったのに、つい子母沢寛の筆がすべり、あたかも語ったように書いてしまったということも考えられます。
新選組の羽織は、京都で密接な関係にあった会津藩の史料のなかにも、いくつか目撃記録があります。
「壬生浪人と号し居候者共五十二人、一様の支度致し、浅黄麻へ袖口の所計白く山形を抜候羽織を着しーー」(「騒擾日記」)
「麻羽織、袖ニ白く△△△形の印ーー」(「文久元治亥子太平録」)
これらの記録からは、山形模様が袖の部分にだけ入っていたことをうかがわせてくれます。やはり『新選組遺聞』の記述は子母沢寛の筆の誤りで、実際には袖だけに山形が入っていたと判断していいのではないでしょうか。
右のうち「文久元治亥子太平録」は、△を三つ連ねることで山形模様が図示されているところが貴重です。史料の原本では△は縦に長く、三つ連続した形で記されていて、実際の山形模様がどのようであったかが想像できます。
目撃した会津藩士にとっても、袖に山形模様が入ったデザインの羽織は、奇抜で目を引くものだったのでしょう。
デザインしたのは誰か
『新選組遺聞』には前掲した部分に続けて、次のような記述があります。
「しかし、これは全部に行渡っていないので、まあ主立った人が十人に一人か二人位着ていた程度のものです。余りいい服ではありませんので、自然誰も着なくなりました。勿論近藤だの土方だのという人達は着ませんでした」
この部分は合本版『新選組始末記』でも変わらずに収録されているので、基本的には事実が記されているのでしょう。ただ十人に一人か二人というのは言い過ぎで、「鞅掌録」という会津藩の記録に「浪士時に一様の外套を製しーー」とあるように、揃いのデザインの羽織が少なくとも初期には制服として使われていたことは間違いありません。
あまりいい服ではないというのは、そもそもこの羽織は麻でできていて、夏服として使用することを想定されたものでした。傷みやすい麻製であったことが、この羽織の制服としての寿命を縮めた一因だったといえるでしょう。
それよりも、談話のなかにある近藤勇や土方歳三は着なかったという部分が気になります。局長も副長も着ないのでは、制服としての意味がますます薄くなってしまうのではないでしょうか。
おそらく制服の羽織を赤穂浪士の装束に似せて作成しようと提案したのは、近藤でも土方でもなく、初期新選組の実権を握っていたもう一人の人物――すなわち芹沢鴨だったのでしょう。近藤も赤穂浪士好きで知られていますが、自身が着ようとしないのでは、羽織のデザイン提案者とは考えられません。
芹沢の死と時期を同一にして制服羽織が廃れていったように見えるのも、おそらくはそれが大きな理由だったのでしょう。近藤・土方体制で生まれ変わった新選組にとって、芹沢の残した羽織はもはや無用のものだったのです。
その後の新選組は、黒い羽織と黒い袴で揃えた黒づくめの制服を導入したと伝わっています。
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