幕末期に活躍して歴史に名を残した人物はたくさんいますが、西郷隆盛や勝海舟と並んで今なお絶大な人気を誇るのが坂本龍馬です。多くの創作作品にも登場するため、誰もが知る偉人といえるでしょう。
そんな龍馬の写真を皆さんも、一度は目にしたことがあると思います。貴重な資料であるその写真は、どのようにして撮影されたのでしょうか。
今回は、龍馬の写真が撮られた上野撮影局とカメラマン・上野彦馬(うえのひこま)の経歴、また残された逸話についてご紹介します。
坂本龍馬の写真コレクション
当時の写真は、歴史上の人物を身近に感じられる数少ない資料の一つといえます。また、当時の時代背景を知るためにも欠かせないものといえるでしょう。まずは残された龍馬の写真に焦点を当てます。
名刺がわりに配った?上半身の写真
当時は名刺代わりに写真を配ることが慣例だったようで、龍馬もこの上半身だけが写された写真を配っていました。そのため、多くの人がこの龍馬の写真を手にしていたようです。
福井の政治家、由利公正(ゆりきみまさ)には、龍馬が亡くなったのと同じ瞬間に、突風に吹かれてこの写真(手紙という説もあり)をなくしたというエピソードが残されています。
有名過ぎるブーツ姿の写真
慶応2~3年(1866~1867)ごろに撮影されたブーツ姿の写真で、龍馬といえばこの姿を思い出す人が多いでしょう。龍馬は新しいもの好きで、日本で最初にブーツを履いた人物といわれています。香水も愛用しており、姪の春猪(はるい)や姉の乙女にも贈っていたようです。
ブーツ姿の写真は立ち姿と座り姿との2枚が残されていますが、それぞれ違うブーツだといわれています。一つは長州藩の高杉晋作からプレゼントされたもの、もう一つは当時の龍馬が結成した日本初の商社といわれる「亀山社中(かめやましゃちゅう)」の後ろ盾となっていたスコットランド出身の商人トーマス・グラバー経由で購入したものと考えられています。グラバーの住む長崎居留地には「トンプソン靴店」があり、そこで購入したのかもしれませんね。
菊の花と共に龍馬座像写真
龍馬の最後の写真と思われるのが、背景に菊の花が写っている写真です。室外で撮られた写真はこれ1枚のみで、髪の生え際から考えて、亡くなる直前の慶応3年(1867)秋ごろのものと思われます。これは龍馬が活躍した年でもあり、最期を迎えた年でもありました。
土佐勤王党に入り脱藩した龍馬でしたが、この年の4月上旬には脱藩を許され「亀山社中」を「海援隊」に改編、6月には後藤象二郎と「船中八策」を作成したり薩土盟約を締結したりしました。11月に京都の酢屋で「新政府綱領八策」を草案しますが、その10日ほどあと、中岡慎太郎とともに近江屋で襲撃され死亡します。龍馬が最後に残したこの写真は、奇しくも遺影のようになったのです。
龍馬を撮影した上野撮影局とは
龍馬や晋作など幕末の偉人たちの写真は、長崎の「上野撮影局」で撮影されました。この撮影局は、日本初のプロカメラマンといわれる上野彦馬によって開設されたものです。
館長:上野彦馬について
彦馬は、天保9年(1838)に蘭学者・上野俊之丞(しゅんのじょう)の次男として長崎で生まれました。
安政5年(1858)、オランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトが教官を務める医学伝習所内の「舎密試験所」に入り、舎密学(化学)を学びます。そこで知った湿板写真術に興味をもち、技術を習得して化学薬品の自製をするようになったのです。化学の視点から写真の研究を重ねた彦馬は、文久2年(1862)に故郷の長崎で「上野撮影局」を開業しました。これは日本初期の写真館の一つに数えられています。
ちなみに日本で初めて写真機を購入したのは彦馬の父・俊之丞で、この写真機はのちに薩摩藩へと渡り、安政4年(1857)には初の日本人モデルによる写真撮影が行われました。この時モデルとなったのは、藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)だったそうです。
日本初の戦場カメラマンだった?
「上野撮影局」では、多くの幕末志士や、明治時代の高官・名士の肖像写真が撮影されました。
長崎の名所にもなっていたようで、龍馬以外にも高杉晋作・伊藤博文・後藤象二郎などがこの撮影所を訪れ写真を撮っています。
これらの写真は必ずしも彦馬によるものではないようで、最近の研究では、龍馬の写真は彦馬の弟子・井上俊三が撮影したものだとされています。
彦馬は人物以外にもさまざまなものを撮影しており、明治10年(1877)には西南戦争の戦跡を撮影し、第1回内国勧業博覧会で鳳紋褒賞を受賞しました。これは日本初の戦跡写真で、歴史的にも文化的にも高評価を得ているものです。従軍カメラマンとしても活躍した彦馬は、日本初の戦場カメラマンといえるかもしれません。
龍馬の写真にまつわる逸話
名刺代わりだったとはいえ、当時写真はまだ珍しいものでした。現在のように修正できないため、その中にはさまざまな事情が写り込んでいることでしょう。
龍馬の写真にはいくつかの逸話が残されています。ここでは二つのエピソードをご紹介します。
左手を隠している?その秘密
龍馬の写真には左手が隠れているように見えるものが多いです。これは、慶応2年(1866)の「寺田屋事件」の影響だという説があります。
「寺田屋事件」の際、龍馬は幕府伏見奉行の配下に襲われ、指に傷を負いました。この傷は思いのほか深かったようで、左手の人差し指は二度と曲がらなくなってしまったそうです。そのため、写真を撮る際は必ず左手を隠すようになったといわれています。
写真が残る妻との甘い生活
龍馬には「お龍(りょう)」という妻がいましたが、彼女についても晩年の写真が残されています。
二人は日本初の新婚旅行をしたことでも有名で、龍馬は手紙でよくお龍のことを話題にしたり、「平和になったら日本を巡ろう」と提案したりするなど、かなり彼女にほれ込んでいたようです。お龍もずっと龍馬を思い続けていたのか、再婚後も酒に酔っては「私は龍馬の妻だ」と口にしていたといいます。二人の結婚生活は2年弱という短さでしたが、とても幸せな期間だったのでしょう。
明治になり、龍馬について記した本がベストセラーになりましたが、事実誤認や創作が多かったため、『維新の残夢』などを著した安岡秀峰がお龍のもとを訪ねました。その時に撮影されたのが、晩年のお龍の写真です。
新しいものが好きだった龍馬
ブーツを履き香水を愛用していたといわれる龍馬ですが、そんな新しいもの好きの性格だったからこそ複数の写真が残されたのかもしれません。もし暗殺されていなければ、さらに驚くエピソードを生み出していたことでしょう。お龍も「龍馬が生きていたらまた何か面白い事もあったでしょう」と語っています。
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