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【織田信長の安土城】豪華絢爛!幻と呼ばれる城の構造と特徴

【織田信長の安土城】豪華絢爛!幻と呼ばれる城の構造と特徴

歴史上の人物の中でも屈指の人気と知名度を誇るのが、戦国大名の織田信長です。その信長が天下統一を進めるうえで居城となったのが、世に名高い「安土城」でした。信長が命を落とした「本能寺の変」後に焼失し、現在は石垣が残るのみとなっている安土城ですが、いったいどんな構造で、どういった役割を果たしていたのでしょうか。

そこで今回は、安土城に垣間見られる“信長らしさ”や、幻と呼ばれる城を復元する手がかりに至るまで詳しくご紹介します。

信長が安土城を築いた理由

安土城跡の石垣
安土城は現在、石垣のみが残っています。

信長は稲葉山城を岐阜城と改めた時期に天下布武を掲げたとされています。”岐阜“は古代中国の周の王が岐山を出発点に天下を取ったことにあやかって名づけられており、その思い入れの強さを感じますが、なぜ滋賀に安土城を築き、拠点をこちらに移したのでしょうか。その理由について見ていきましょう。

京に近く利便性が良かった

群雄割拠の戦国時代とはいえ、国全体を統括していたのは曲がりなりにも室町幕府で、政治の中心は京都でした。京都に近い滋賀を拠点とすることは、幕府や皇室への影響力を高めるなど、天下取りを目指す過程で大きなメリットがあったわけです。また、琵琶湖の水脈を使いやすいという生活面での利便性もありました。

絢爛豪華!天下布武の象徴だった

後で詳しく触れますが、安土城は当時の城としては別格の大きさで絢爛(けんらん)豪華でした。こうした城がおよそ3年という急速なスピードで建築され、安土の山肌に君臨したのですから、周囲の大名や民衆に与えたインパクトは相当なものだったでしょう。

また、信長がこの地に居城を構えたもうひとつの理由として、一向一揆で知られる石山本願寺や越後の上杉謙信をけん制する狙いもあったといわれています。富と権力を印象付けることで天下人をアピールし、対抗勢力をおさえる意図もあったわけです。

安土城の概要を知る

さて、政治的なメリットと天下人のアピールを兼ね備えた安土城ですが、焼失のために現在は全容をうかがい知ることはできません。城跡や長年の調査などから導き出されている構造と絢爛豪華さの具体的な部分に迫ってみましょう。

安土城の構造とは?

安土城跡の二の丸

安土城は天正7年(1579)、琵琶湖東岸の安土山(現在の滋賀県近江八幡市)に築城されました。城郭は総石垣でその上に城があり、地上6階建て(5層7重)、積み上げられた石垣も含めれば50メートルに迫る高さだったと推測されます。石垣の上に天守が建てられるのは歴史上初めてとされており、こうした築城技術は近世城郭の手本となっていきました。

特異性を示す構造としては、地上3階までが巨大な吹き抜けで、中央に宝塔が据えられた空間があったという説がある一方、中央には心柱があったとする説や、懸け造りで二の丸とつながっていたという説もありますが、どれも可能性の域を出ていません。

そんな中、実際に城を訪れた宣教師のルイス・フロイスが残した記録「日本史」は、安土城の実像を知る上でベースのひとつとされています。

ルイス・フロイスが絶賛した城

ルイス・フロイス「日本史」目次
フロイスが記した「日本史」の目次です。

フロイスによると、内部の四方の壁は鮮やかな金色で多くの肖像があり、外部は層ごとに色分けされ、漆塗りの窓がある白壁が絶妙な美しさを誇っていました。主な階層には赤や青の塗装がほどこされ、最上階はすべて金色だったといいます。

新しいもの好き、派手好きなイメージのある信長らしく、古い様式にとらわれない柔軟な色彩感覚を伴った城といえそうですね。フロイスは安土城を欧州最高峰の城に比肩すると評しており、さらに天守については欧州の城をもしのぐほど、「気品があり壮大」と最大級の賛辞を残しています。

安土城の特徴とは?

従来の城は戦における軍事的機能を念頭に建てられてきたものでしたが、安土城は違いました。革新的な発想を持つ信長ならではの城の特徴について見ていきましょう。

天皇を迎え入れる準備がされていた

安土城には皇室への影響力を高める狙いもあったということは先に触れましたが、これは天守の下に設けられた本丸御殿からもうかがえます。その特徴は、京都御所内にある清涼殿と酷似した構造になっていたということです。清涼殿とはいわば天皇が住む家のこと。つまり、天皇が外出して安土城を訪れることを想定し、迎え入れる準備を整えていたわけですね。

軍事拠点ではなかった?

また通常、城は敵の侵入を想定して道が狭かったり入り組んだりしていますが、安土城では道幅が広く、大手道と呼ばれる直線の道も長く続いていて、防衛策も乏しいものでした。これは、安土城が織田家の支配地域のずっと内側に位置していて軍事拠点とする必要がなかったこともあり、「見せる城」を追求したためと考えられます。

実際、見物料を取って民を敷地内に入れることで一般公開もしていたといわれるなど、当時としては斬新な発想で天下人をアピールしていたようです。

天守閣で生活していた

織田信長の肖像
神戸市立博物館に所蔵されている、信長の肖像です。

信長は、それまで居住空間とは考えられていなかった天守に実際に住んでいたと推測され、日本人で初めて高層の建築物に住んだ人物ともいわれています。安土城の場合は天守を「天主」と呼ぶこともありますが、天下人として人の上に立つ「主(あるじ)」であることを知らしめるパフォーマンスの意図もあったのでしょう。

幻の城とうたわれる

従来の城とは一線を画し、天下布武の威光と政治的な目的をもって築城された安土城。圧倒的なスケールを誇った革新的な構造と特徴は、後世の築城様式を一変させ、石垣の上に本丸と天守という、現代につながる「城のイメージ」を決定付けるほど大きな影響を与えました。
そんな安土城ですが、現在は特別史跡として石垣などの一部の遺構を残すのみです。滋賀県が平成元年(1989)から20年かけて行った発掘調査も、史跡指定面積の約20%にとどまっており、全域の調査には50~100年かかるといわれています。
しかし、全容解明や復元への手がかりがないわけではありません。実は信長が安土城を描かせた屏風(びょうぶ)図が天正遣欧使節からローマ法王に納められたとの記録があるのです。もし、これが発見されるなどすれば、“夢幻のごとく”失われた城がよみがえる日も来るかもしれませんね。

 

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