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【永禄の変】足利義輝自ら刀で応戦!戦国のクーデターはなぜ起きたか?

【永禄の変】足利義輝自ら刀で応戦!戦国のクーデターはなぜ起きたか?

永禄8年(1565)室町幕府の第13代将軍・足利義輝は、三好家の軍勢による襲撃で殺害されました。この事件は当時の元号から「永禄の変」と呼ばれています。将軍が襲われるという衝撃の事件は、戦国のクーデターともいえるでしょう。しかし、一体なぜこのような事件が起こったのでしょうか?

今回は、永禄の変が起こった背景、経過、その後の影響、事件の動機などについてご紹介します。

永禄の変の背景

義輝を殺害した三好家はどのような立場にあったのでしょうか?永禄の変が起こった背景について振り返ります。

細川晴元の家臣・三好家の台頭

大徳寺・聚光院蔵(京都国立博物館寄与)の、三好長慶像です。

永禄の変を起こした三好家は、もともと管領・細川晴元の家臣という立場でした。勢力を拡大していた三好元長は、足利義維と晴元を擁し、将軍・足利義晴や管領・細川高国と対立。しかし、高国滅亡後に将軍側に寝返った晴元によって自害に追い込まれます。

元長の跡を継いだ三好長慶はやがて晴元と対立し、仇敵である晴元の側近・三好政長を討ち取りました。これを受け、晴元は13代将軍となった足利義輝と前将軍の義晴を連れて近江国へ逃亡。長慶は摂津平定など勢力を伸ばし、晴元・義輝との対立と和解を繰り返します。

親政を推し進めた将軍義輝

この当時、将軍の権威は失墜していました。幕府の権力は足利家から細川家へ、その家宰の三好家へと移っており、将軍は飾りと化していたのです。家臣の対立を恐れた将軍・義輝は、京の御所から近江朽木に避難するほどでした。

そんな中、幕府復権を掲げた義輝は、大名の抗争に介入したり守護職への任官斡旋をしたりしながら、諸大名との関係を強化し親政を推し進めます。やがて義輝が帰京し、長慶は有力大名の待遇を受け、幕府と三好家は協力態勢をとるようになりました。こうして幕府は、将軍・義輝、実権を握る長慶という構図になったのです。

三好長慶の死と、両者の対立

永禄7年(1564)幕府の実権を握っていた長慶が病死します。長慶の後継者・三好義継はまだ若く、三好家は三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と松永久秀によって担われることになりました。

一方、将軍・義輝は長慶の死をきっかけにさらなる勢力拡大をはかり、幕府再興を加速させようと企みます。しかしこれは、将軍を傀儡化したい三好家にとっては不都合でした。こうして両者の対立は深まり、やがて三人衆と久秀は、義輝の従兄弟・足利義栄を傀儡将軍として擁立したのです。

永禄の変の経過

将軍・義輝と三人衆らの対立により起こった永禄の変。その経過はどのようなものだったのでしょうか?

二条御所に軍勢が押し寄せる

舞台となった二条御所は、現在では二条城として観光スポットになっています。

義輝は三人衆らを警戒し、数年前から二条御所の堀や土塁を強化していました。ルイス・フロイスの『日本史』では、義輝は事件前日に御所脱出を試みています。しかし、将軍の権威が失墜するという理由から近臣らに反対され、仕方なく御所に戻ったといいます。

そして事件当日、三人衆と久秀の子・松永久通らは、清水寺参詣を名目に集めた約1万人の軍勢を率い、二条御所を襲撃しました。奉公衆が義輝に取り次ぎするあいだに四方の門から攻撃を開始。それに対抗する義輝側の兵力は数百人程度でした。なお、久秀はその場にはいませんでしたが、将軍暗殺を容認していたと考えられています。

義輝みずから奮闘するも…

この襲撃に将軍方は激しく応戦しました。義輝は近臣たちと一人ずつ杯を交わし、30人ほどを従えて討って出たといいます。塚原卜伝の弟子で剣豪将軍としても名高かったといわれる義輝は、自ら薙刀や刀を振るい応戦。また義輝の近習たちも猛者が多く、三人衆の軍勢に大きな被害を与えたそうです。多勢に無勢のなか奮闘した将軍方ですが、やがて主従全員が討ち死にまたは自害します。奉公衆の進士晴舎は敵の侵入を許したことで切腹し、義輝の正室は実家の近衛家へ送られるも自害しました。

事件後の影響

クーデターを成功させた三人衆らでしたが、その後は三好家中での対立が勃発します。永禄の変は世の中にどのような影響を及ぼしたのでしょうか?

三好三人衆と松永久秀が対立

歌川吉育による、『太平記英勇伝:十四、松永弾正久秀』です。

永禄の変後、三人衆・久通らは義輝の異母弟を殺害。その一方で久秀は、義輝の同母弟である覚慶(足利義昭)を幽閉するだけでした。これは、三人衆が義栄を次期将軍に擁立することを見越しての対抗策だったとも考えられています。

ところが事件の2ヵ月後、義輝近臣の細川藤孝らにより義昭が脱出。三人衆は久秀の排除を画策してこの責任を追及、義栄を奉じて三好家当主・義継を取り込みました。

両者の対立が続く中、義継が三人衆のもとを脱し、久秀と和睦して共闘することになると、久秀も三人衆討伐を計画 します。こうして三人衆と久秀方は、畿内各地で衝突を繰り返していったのです。

将軍の後継者問題が勃発

三好家中の対立と同時に浮上したのが、将軍の継嗣問題です。義輝の後継者候補は、三人衆の擁立する義栄と、幽閉から逃れて朝倉義景を頼った義昭の二人がいました。朝廷は二人を将軍候補「左馬頭(さまのかみ)」に命じ、先に上洛したほうを将軍にすると宣言します。しかし、両者とも内紛などで忙しくなかなか上洛は実現しませんでした。そこで朝廷は100貫の献金を条件にし、先に応じた義栄が将軍就任を果たしたのです。

この状況に焦った義昭は、なかなか動こうとしない義景から離れ、織田信長を頼って上洛しました。義継と久秀は恭順を示し、三人衆は相次いで降伏。また義栄も病死し、義昭は正式に第15代将軍に就任しました。

永禄の変の動機とは?

事件後にもさまざまな影響が表れた永禄の変ですが、そもそもの動機は何だったのでしょうか?ここでは2つの説をご紹介します。

将軍側に陰謀があった?

『信長公記』では、将軍殺害は将軍側が三好家に対し謀反を計画したためとされています。もともと将軍家と三好家は対立の末に和解し、その後に協力態勢をとるようになりました。しかしそれ以前、長慶が命を狙われる事件が何度も勃発しており、当時からこの黒幕は将軍ではないかと囁かれていたようです。

本当は訴訟が目的だった?

三好方は将軍に取り次ぎを求める際、訴訟(要求)があると偽りました。しかし近年では、この訴訟は口実ではなく本来の目的だったという見方もあるようです。この時代は、将軍の住まいを包囲して政敵の失脚を強要する「御所巻」という行為が横行していました。この説では、永禄の変もそのような訴訟の一つで、要求の大きさや将軍側の強硬姿勢から両者が衝突し、計画外だった将軍殺害に発展したのではないかと考えられています。

足利義昭と織田信長の時代へ

永禄の変は、将軍が殺害されるという室町幕府の大きなクーデターでした。これにより義輝は命を落とし、本来将軍職を継ぐはずがなかった義昭がその地位にのぼりつめます。そして彼の上洛を助けた信長が台頭し、新しい時代が到来するのです。義昭もまた幕府再興を目指しますが、やがて信長と対立し信長包囲網を構築。ここに三人衆らが参加したのは少し皮肉かもしれません。永禄の変は、時代の過渡期の事件ともいえるでしょう。


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