維新前夜の騒然とした状況のなか、慶応3年12月25日(1868年1月19日)、江戸の薩摩藩邸が庄内藩らによって焼き討ちされるという事件が勃発。これをきっかけに鳥羽・伏見の戦いが始まり、戊辰戦争へと発展していくのですが…そもそもの発端は、西郷隆盛ら薩摩藩による幕府への挑発からだったようです。
幕府を挑発した薩摩
幕末当時、薩摩藩といえば倒幕の急先鋒でした。慶応3年(1867)10月、朝廷から「倒幕の密勅」が薩摩藩・長州藩に下されます。これを受けた薩摩藩および西郷隆盛は、さっそく江戸の藩邸に尊攘過激派の浪士たちを集め、放火や略奪などを指示。江戸の治安を乱れさせ、そこから人心の不安、幕府への信頼失墜を狙ったのでしょう。
ところが15代将軍徳川慶喜は大政奉還を行います。幕府がなくなってしまうのですから、倒幕はすでに意味をなしません。さらに、今後は旧幕府と有力諸藩が話し合って政局にあたるという流れになり、すでに発布された「王政復古の大号令」まで撤回されそうになるなど、薩摩藩は一転ピンチに陥りました。
そこで取った手段、それが、騒乱の更なる拡散でした。薩摩側の浪士たちは引き続き関東各地で襲撃事件を起こし、そのたび江戸薩摩藩邸に逃げ込みます。事件を起こしているのは薩摩だとはっきり言っているようなものですね。
同年12月22日には、浪士30人あまりが庄内藩お預かりの新徴組屯所を襲い、23日には庄内藩の屯所を襲撃します。当時、庄内藩は会津藩と並ぶ佐幕派の双璧といわれ、江戸市中取締役でした。
ついに老中・稲葉正邦は浪士らの討伐を決め、庄内藩らが江戸薩摩藩邸を取り囲んだのです。
討ち入り決行!
12月25日未明、現在の東京都港区三田にあった薩摩藩邸に討ち入ったのは1000名近くの軍勢で、総大将として指揮をしたのは庄内藩の中老・石原倉衛門でした。
対する浪士は200名ほどと多勢に無勢。3時間ほどで藩邸は焼失し、使用人や浪士64名が犠牲になります。旧幕府側の被害は上山藩9名、庄内藩2名でした。
ただ、浪士たちは事前に脱出を指示されており、火災に紛れて多くが逃走しましたが、112名が捕縛されました。なかには逃走に成功し、そのまま戊辰戦争に参加した相楽総三などの浪士もいます。
この事件はすぐに、当時大坂城にいた慶喜らに知らされました。旧幕府の、特に主戦派は激怒。薩摩討つべしとの声が湧き上がり、慶応4年(1868)1月、「討薩の表」を掲げ、京都に向け進軍を始めます。しかし、それこそが薩摩藩の狙いでした。
1月2日には旧幕府の軍艦が薩摩藩の軍艦に砲撃、3日には鳥羽、伏見で薩摩藩・長州藩の新政府軍と旧幕府軍の戦闘が始まり、翌年まで続く戊辰戦争へとなっていくのです。
それでも、西郷に惚れ込んだ庄内藩
戊辰戦争時、庄内藩は新政府軍を圧倒する戦いをしますが、明治元年(1868)9月、ついに恭順。明治2年(1869)5月には戊辰戦争が終結します。
戦後処理として各藩の戦争責任者の訴追が行われましたが、庄内藩は石原倉衛門に全責任を負わせました。しかし実際には慶応4年(1868)に戦死しており、処分は形式的なものとなります。
同じ佐幕派の会津藩が戊辰戦争後、陸奥斗南藩3万石に転封となるなど重い処分を受けたのに比較すると、庄内藩は17万石から12万石への減封のみで、非常に寛大なものでした。
これは西郷隆盛の命で、降伏時に城を接収に来た官軍の参謀・黒田清隆も非常に丁寧な態度だったそうです。倒幕のためとはいえ、庄内藩に感じるところがあったのかもしれません。
そんな西郷に惚れ込んだ庄内の人々は、その後、前途ある若者たちを書生として西郷のもとに送り、西郷隆盛の遺訓集である『南洲翁遺訓』も著しました。明治10年(1877)の西南戦争時には旧庄内藩士が西郷軍に参加しています。
倒幕を目指した薩摩藩にとっては、まさにターニングポイントとなる事件。大河ドラマ「西郷どん」でこれらのエピソードがどのように描かれるのか、とても興味深いです。
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