歴人マガジン

【徳川四天王筆頭:酒井忠次】徳川家康第一の功臣!その経歴と逸話

【徳川四天王筆頭:酒井忠次】徳川家康第一の功臣!その経歴と逸話

徳川家康の側近のなかでも功臣として知られるのが、「徳川四天王」である酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人の戦国武将です。彼らの存在は、明治中期には日本人だけでなく英国人にも知られていたようです。
四天王筆頭だった酒井忠次は、家康第一の功臣でした。徳川家に貢献し江戸幕府の基礎固めにも尽力した忠次は、どのような人物だったのでしょうか?
今回は、忠次のうまれから徳川家の家老になるまで、戦場での活躍、残された逸話などについてご紹介します。

うまれから家老になるまで

忠次はどのように家康の功臣になったのでしょうか?幼少期から家老になるまでの経緯を振り返ります。

松平氏の譜代家臣・酒井家に生まれる

忠次は、大永7年(1527)徳川氏の前身・松平氏の譜代家臣である酒井忠親の次男として三河で誕生しました。一説によれば、酒井氏は松平氏と先祖を同じくする庶流であり、由緒ある系譜だといわれています。
忠次は家康が生まれたころに元服し、それ以降は家康の父・松平広忠に仕えました。天文18年(1549)家康が今川義元への人質として駿府に送られる際に同行し、それ以降は家康配下となります。
この当時の松平氏は今川氏に服属していたため、忠次は今川方として尾張・織田信秀との戦いに参加し、戦功をあげました。また、居城の福谷城が織田軍に攻められたときは、激戦の末に織田方の柴田勝家を敗走させ勝利しています。この攻防戦は『東照軍艦』『徳川実紀』など多くの書物に記述されました。

徳川家の家老、東三河の旗頭へ

忠次が城主となった吉田城は、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たしました。

永禄3年(1560)桶狭間の戦いが勃発します。この戦いで忠次は先鋒隊として活躍、家康にとっても大きな転機が訪れました。家康らは今川氏敗北の混乱に乗じ、松平氏の本拠である岡崎城に入城。忠次は織田信長と和睦して手を組むよう進言し、家康はついに今川からの独立を果たします。
その後、忠次は徳川家の家老に就任。永禄6年(1563)の三河一向一揆では、多くの酒井氏が一向一揆側に味方するなか、忠次は家康に従って戦いました。その翌年の吉田城攻めでは先鋒を務め、無血開城を実現して吉田城主となっています。このような功績から、忠次は東三河の旗頭に取り立てられました。

戦場で活躍し続けた忠次

家康のもとで出世し、数々の戦いで活躍を遂げた忠次。しかし、悔恨を残す事件もあったようです。

織田信長から称賛される

忠次は、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、高天神城の戦い、長篠の戦いなど主な戦いに参加し、家康から厚い信頼を得ました。とくに武田勝頼と対立した長篠の戦いでは、武田軍の背後をついて落城させたことから「背に目を持つごとし」と信長の称賛もうけています。また、忠次は外交の窓口としての役割も担っており、取り次ぎとしても活躍していたようです。当時の家康にとっては欠かせない存在だったといえるでしょう。

家康の嫡子・松平信康の事件で…

勝蓮寺所蔵の松平信康の肖像です。

天正7年(1579)家康の妻・築山殿と嫡男・徳川信康が死罪になる事件が起きました。信康の正室・徳姫は信長の娘で、今川の血を引く築山殿や信康に不満を抱き、夫との不仲や、築山殿が勝頼と内通したことなどを忠次を通じて信長に報告します。それが事実かどうか詰問された忠次は、信康を庇うことなく事実だと容認。家康は信長から妻子の切腹命令を受け、やむを得ず処断しました。その後、忠次が長男・家次の知行を加増するよう嘆願した際、家康から「おまえも子がかわいいか?」と暗になじられたといわれています。

徳川家の台頭と忠次の隠退

時は流れ、本能寺の変で信長が横死します。羽柴秀吉の時代が到来すると、徳川家も徐々に台頭していきました。

家康第一の重臣となる

天正10年(1582)本能寺の変が勃発した際、家康はわずかな供回りと堺を遊覧中でした。しかし信長横死の知らせを受け、危険な道のりを経て三河に帰還します。この「神君伊賀越え」には忠次も同行しました。
三河帰国後、領主不在状態になった甲斐・信濃・上野の武田旧領をめぐり、天正壬午の乱が勃発。忠次は信濃に侵攻して国衆たちを次々と懐柔し、徳川家は甲斐・信濃を得て5カ国を領有します。また天正13年(1585)家康の宿老・石川数正が出奔すると、忠次は家康第一の重臣となり、家中で最高位となる従四位下・左衛門督に任命されました。

家督を譲り隠居する

長らく家康と苦楽を共にしてきた忠次ですが、天正16年(1588)には長男・家次に家督を譲って京都で隠居します。この隠居は年齢のせいもあるものの、眼病でほとんど目が見えなかったからともいわれています。このころ家康は秀吉の軍門に降っており、忠次は秀吉から京都の屋敷と在京料1000石を与えられていたようです。
そして慶長元年(1596)秋、忠次は京都の桜井屋敷で亡くなりました。墓所は、知恩院の塔頭・先求院にあります。

忠次にまつわる逸話

家康の重臣として活躍した忠次は、どのような人物だったのでしょうか?忠次にまつわるエピソードをご紹介します。

「酒井の太鼓」は歌舞伎の演目に

三方ヶ原の戦いで太鼓を打った酒井忠次を描いた、『酒井忠次時鼓打之図』です。

家康の生涯で最大のピンチだったともいわれる三方ヶ原の戦い。この合戦で家康が浜松城に逃げ帰った後、忠次は城の櫓上で太鼓を鳴らしました。これにより武田方は、伏兵がいると思い引き返したといわれています。この「酒井の太鼓」の逸話は、明治6年(1873)東京村山座で歌舞伎の演目として初演され人気を博しました。

門松の斜め切りの由来になった?

元亀4年(1573)の正月のこと、武田家から「まつかれて たけたぐひなき あしたかな」という句が送られてきました。この句は、松は松平、竹は武田を示し、「松平が滅んで武田が栄える年の始めだ」いう意味だったため、家康や家臣らは激怒したといいます。そこで忠次は、その句にいくつか濁点を加えて「松枯れで武田首(たけだくび)なき明日かな」と詠み返し、「松平は滅びず武田信玄の首が飛ぶめでたい年の始めだ」という意味に変えてしまったのです。
このような逸話から、正月の門松を斜めに切り落とすのが習慣になったという説があります。

「海老すくい」の踊りが得意!

忠次は「海老すくい」という踊りが得意で、諸将の前で踊りを見せて場を盛り上げたといわれています。家康と北条氏政の同盟締結の際も、酒宴でこの踊りを披露したのだとか。この「海老すくい」がどのような踊りかは不明ですが、重臣でありながら気さくな振る舞いをする人物だったようです。

日本刀「猪切」を愛用した

忠次の愛刀は村正の高弟・正真の作「猪切(いのししぎり)」で、家康が狩りに出た際、忠次がこの刀で猪を斬ったことから「猪切」の金象嵌(きんぞうがん)を入れたといわれています。この刀は、忠次の四男・松平甚三郎の家系に伝わりました。また、忠次所有としては「甕通槍(かめどおしやり)」も有名です。この槍には、戦場で窮した敵が水瓶をかぶって隠れた際、その瓶ごと槍で貫いたといういわれがあり、酒井家の重宝とされています。

徳川家康の天下取りに貢献した

徳川四天王だけでなく徳川十六神将の筆頭でもあった忠次。一人だけ年上だったため、四天王のほかの武将とは活躍時期が異なりますが、人質時代から家康のそばに仕えていた彼の功績はあまりにも大きいでしょう。その実力は信長や秀吉からも認められるほどで、徳川家の台頭にはなくてはならない存在でした。

 

あわせて読みたい関連記事

Return Top