歴史作家・泉秀樹が歴史の現場を探訪取材し、独自の視線で人と事件を解析して真実に迫る「泉秀樹の歴史を歩く」(J:COMテレビで好評放送中)。
今回のテーマは、松平信綱。
わずか八歳のとき、みずからの人生を切り拓き徳川将軍の側近として「あれは人ではない」といわれながら頭脳の限界を生きた切れ者の生涯をたどる。
第1章
正綱は徳川一門の「十八松平」のひとつである長沢松平家の養子になり、義父の跡を継いで家康の近習出頭人として幕府の財政を担当していた。理財に明るく、三代将軍・家光の時代になると、二万二千石の書院番頭に出世する聡明な人物である。
正綱は、この甥の信綱に、本名を捨てて養子になり、われらの苗字をのぞむのはなぜか、と理由を尋ねた。
すると、信綱は「松平姓であれば、御座(将軍)近くでご奉公できるかもしれない」とこたえた。
正綱は両親がこれを承知すればよいとこたえ、その後、信綱は正綱の家に住むことにしてしまった。そして、この話がまとまると「今日から松平三十郎(信綱の幼名)だ」といったという。
にわかには信じがたいが、なんと信綱八歳のときのことである。
第2章
信綱は小姓組番頭と「老中並」を兼任し、阿部忠秋、堀田正盛、三浦正次、太田資宗(すけむね)、阿部重次らとともに、家光を補佐する若年寄に匹敵する「六人衆」の一人として、幕府政権運営の中枢に重要な位置を占めた。
この六人衆が「武家諸法度」を整備して「寛永武家諸法度」とし、参勤交代の制度、鎖国などなど徳川幕府の支配体制の基礎を築いてゆくのだ。
その業績はというと、鎖国によって幕府は貿易や外交権を独占し、寛永十一年(一六三四)の家光上洛によって天皇の権力を幕府体制に組み入れ、諸宗寺院法度を発布して宗教も統制した。商工業は特権的な商人たちを統括支配し、新田開発も行った。さらには田畑永代売買禁止令も施行して基礎財源を確保したのである。
そして、寛永十年(一六三三)四月には堀田正盛とともに御数寄屋方支配、五月五日には土井利勝、酒井忠勝とともに老中に任じられ、一万五千石を加増されて武蔵・忍(埼玉県行田市)の城主となった。八歳のときに考えた通りの出世で、このとき三十六歳である。
第3章
信綱は老中になってから歴史を動かした三つの大事件を処理しなければならなかった。
「島原の乱」と「慶安事件」と「明暦の大火」である。
第4章
領地である川越を、信綱はどのように統治経営したのであったか。
川越に入封した信綱は、まず寛永十五年(一六三八)の川越大火で消失した城の一部の再建と、川越城全体の拡張整備を行った。
と同時に、城下町の町割り整備を行った。
番組ナビゲーター:泉秀樹(いずみ ひでき)
作家・写真家 昭和18年(1943)静岡県浜松市生まれ。昭和40年(1965)慶應義塾大学文学部卒業。産経新聞社記者・編集者などを経て作家として独立。写真家としてもヤマハ横浜・藤沢で『モーツアルトのいる風景展』、藤沢市民ギャラリーで『四季の藤沢-人と海と街展』を開催するなどの活動をつづけている。昭和48年(1973)小説『剥製博物館』で第5回「新潮新人賞」受賞。日本文芸家協会会員。
「泉秀樹の歴史を歩く」
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