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【泉秀樹の歴史を歩く】忠臣蔵の黒幕を追う

歴史作家・泉秀樹が歴史の現場を探訪取材し、独自の視線で人と事件を解析して真実に迫る「泉秀樹の歴史を歩く」(J:COMテレビで好評放送中)。

今回のテーマは、忠臣蔵

主君の仇をとる。それだけを考え、それだけを実現するために生きた四十七士の歴史的美談。その復讐の背後には誰にも気づかれずに沈黙を守る強大な権力者がひそんでいた。

第1章

午前十一時ごろ、将軍が勅使に奉答する儀式がはじまる直前、吉良上野介が松の廊下で幕臣と打ち合わせをしているときだった。
上野介の背後から「この間の遺恨、覚えたるか」とさけびながら斬りかかった男がいた。
饗応役の一人である浅野内匠頭長矩である。

第2章

前権大納言で散位(官職外)であった東園基量(ひがしぞの もとかず)は、刃傷事件を知って日記に「吉良、死門に赴かず」(吉良は死ななかった)と書き、内匠頭が切腹させられたことについては「浅野内匠頭存念を達せず、不便々々」(内匠頭は思いを達する事ができず、不憫なことだ)と書き残していることも見逃すことができない。

第3章

内蔵助は浅野家の再興を後援してもらうことと、それがかなわなければ、たとえ間接的にでもこれから自分がやろうとすることを、幕府よりも強大な権威に認知後援してもらわなければならないと考えていたということである。
同時に、それは、みずからの行動とその動機に正当性をあたえ、同志を結束させるための精神的な核や芯ともなる拠りどころを確保することになるから、近衛基煕とつなぎをつけることは内蔵助にとってはどうしても必要なことだった。

第4章

将軍・綱吉は「処罰派」の意見をとり入れ、結局、討ち入りから約五十日後の二月四日に四十七士はそれぞれ預けられた大名家で切腹した。
切腹の跡は、首を斬ったときの血がしみこみ、汚れてしまってさぞ凄かったことだろうが、家来たちがそこを掃除して浄めようとすると、細川綱利は「諸士は吾藩の氏神なり」といって切腹したあとの掃除もさせず、土をそのままにしておいた。
それほど浪士たちを熱狂的に支持していたのである。

 


番組ナビゲーター:泉秀樹(いずみ ひでき)

作家・写真家 昭和18年(1943)静岡県浜松市生まれ。昭和40年(1965)慶應義塾大学文学部卒業。産経新聞社記者・編集者などを経て作家として独立。写真家としてもヤマハ横浜・藤沢で『モーツアルトのいる風景展』、藤沢市民ギャラリーで『四季の藤沢-人と海と街展』を開催するなどの活動をつづけている。昭和48年(1973)小説『剥製博物館』で第5回「新潮新人賞」受賞。日本文芸家協会会員。

「泉秀樹の歴史を歩く」

番組ページ:https://www2.myjcom.jp/special/jtele/rekishi-wo-aruku/

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