初代会津藩主・保科正之(ほしなまさゆき)は、日本の歴史上、屈指の名君ともいわれる人物です。しかし、その名前はあまり知られていないかもしれません。正之は江戸時代初期から中期にかけて活躍した大名・政治家で、影響力は江戸幕府滅亡時まで続きました。その背景には、彼の特殊な出自が大きく関係していたようです。
今回は保科正之について知りたい人に向けて、うまれや大名への出世の経緯、おもな功績などについてご紹介します。
隠された出生
名君と呼ばれる正之も、幼いころはさまざまな苦労をしたようです。その理由は出生の秘密に隠されていました。
2代将軍・徳川秀忠のご落胤
正之は、慶長16年(1611)2代将軍・徳川秀忠の四男として誕生しました。幼名、幸松。母の静(のちの浄光院)は秀忠の乳母・大姥局(おおうばのつぼね)の侍女だったため、正之は正室以外からうまれた庶子という立場でした。
この当時、正室・側室以外の子は江戸城内で出産を行わないのが通例だったこと、また、秀忠の正室・お江の方の気性が激しかったことから、静は武田信玄の次女・見性院の庇護を受けてひっそりと出産します。正之の出生を知っていたのは秀忠側近の老中ら数人のみで、異母兄である秀忠の長兄・家光さえ当初は知らなかったようです。
高遠藩主・保科正光の子として育つ
元和3年(1617)見性院の縁により、正之は旧武田家臣で高遠藩主・保科正光の子として養育されることになりました。高遠入りしてからは高遠城の三の丸に建てられた新居で母とともに暮らし、正光の家臣が守役を務めたといいます。正光はすでに養子だった左源太や弟・正貞を廃嫡し、正之を正式な後継者として指名。藩の重臣らが養育係についた正之は、論語の素読や建福寺での儒学の勉強、甲冑を着けての泳ぎの練習などをしました。
徳川家光が正之の存在を知ったのは…
家光が正之の存在を知ったのはほんの偶然からだったようです。『徳川実紀』によれば、鷹狩りの際、身分を隠してわずかな供回りと目黒・成就院で休憩していた家光は、住職との会話のなかで「肥後守殿は徳川将軍家の弟君なのになぜ不遇されているのか」という言葉を聞いたといいます。
これにより異母弟の存在を知った家光は、のちに成就院に寺領を寄進しました。その後の正之の活躍を考えると、この出来事は奇跡的なものだったといえるでしょう。
なお、正之は寛永6年(1629)に初めて家光に会い、次兄・徳川忠長とも対面しています。
大名への出世
素性を隠して養育された正之ですが、家光らがその存在を知ったこともあり、徐々に出世していきます。やがて、大名へと成長していくのです。
高遠藩主に就任
寛永8年(1631)幕府から出府命令を受けた正之は、重臣5名とともに江戸に向かいます。そこで、養父の死にともない高遠藩3万石を相続するよう秀忠から命じられました。こうして正之は若くして高遠藩主に就任。ここから次々と出世していくことになります。ただし幕府は、正之が家光の異母弟と知りながらもすぐには処遇を改めませんでした。
変化した幕府からの扱い
秀忠の死後に3代将軍となった家光は、謹直で有能な正之を気に入り、徐々に引き立てていきました。秀忠の御遺物として銀500枚を授けたり、徳川家の菩提寺・増上寺の廟建立の責任者に任命したり、家康の十七回忌には日光東照宮へのお参りにも同行させています。
また、10万石以上の大名に与えられる官位を授け、上洛時の先発隊にも指名。これはまさに別格の待遇で、正之が特別であることを周囲に知らしめるのに十分なものでした。このような家光の行動には、正之を肉親として扱う意味合いもあったようです。
山形藩から会津藩主へ
寛永13年(1636)正之は出羽国山形藩20万石を拝領、次いで寛永20年(1643)には陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられます。正之は藩で善政を敷いたことでも知られており、高遠から山形に移る際は約3000人の領民が彼を慕って山形に移動したほどでした。
家光死後は4代将軍・家綱を支えて幕政にも参加し、その後は嫡男・正経(まさつね)に家督を継承して隠居先の江戸三田藩邸で死去。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町にあり、隣接する土津神社(はにつじんじゃ)に祭神として祀られています。正之の子孫である会津松平家は、幕末まで会津藩主を務めました。
保科正之の功績とは?
正之が名君といわれる理由は、藩政・幕政ともに善政を敷いたことにあります。正之のおもな功績をご紹介します。
文治政治の推進
4代将軍・家綱の補佐として幕政に参加した正之は、文治政治を推進しました。大名から人質を出す大名証人制度の廃止、先君への殉死禁止のほか、浪人発生の原因となっていた大名の改易を減らすために末期養子の禁を緩和しました。
明暦3年(1657)の明暦の大火では庶民の救済を優先し、焼失した江戸城の天守再建に反対します。これにより無駄な出費を抑えた正之は、大規模火災対策や都市整備など、江戸の防災性を向上させることにお金をあてました。
産業振興や貧民救済に尽力
藩政としては、漆・鉛・蝋など8品目の藩外への持ち出しを手形で制限したり、伐採できない樹木を定めたりと産業を振興しました。また、飢饉時の貧民救済制度の創設、升と秤の統一、朱子学を藩学とした藩士教育の推奨などにも努めています。身分を問わず90歳以上の高齢者に1日あたり玄米5合を支給したことは、日本の年金制度の始まりともいわれています。
「会津家訓十五箇条」の制定
死の床にあった家光は、子・家綱を頼むと正之に遺言しました。これに感銘をうけた正之は、寛文8年(1668)「会津家訓十五箇条」を定めます。「会津藩は将軍家を守る存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と定めたこの家訓は、正之死後も影響力をもち続けました。幕末の会津藩主・松平容保はこの家訓を守り、最後まで佐幕派として戦ったことで知られています。
江戸初期の三名君と称えられる
将軍の落胤(らくいん=正妻以外にうませた子)でありながら質素な生活をしていた正之ですが、異母兄・家光に目をかけてもらい、その後は藩政や幕政で功績を残しました。そのことから、水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政とならんで、江戸初期の三名君といわれています。
正之は松平姓の許可を受けたものの、保科家への恩義から生涯保科姓を通したといいます。このような義理堅さこそが、名君を作り上げたのかもしれませんね。
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