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【天誅の名人:岡田以蔵】忠義を尽くした悲しき人斬りの人生とは

【天誅の名人:岡田以蔵】忠義を尽くした悲しき人斬りの人生とは

日本史上には人斬りと恐れられた存在がいますが、その中でも特に有名なのが岡田以蔵でしょう。以蔵は幕末の動乱期に勤王志士として暗殺を担いましたが、その記録はほぼ残されていません。しかし、司馬遼太郎の『人斬り以蔵』を始めとし、さまざまな作品でその魅力が描かれています。以蔵はどのような人生を送ったのでしょうか?
今回は以蔵について知りたい人に向けて、剣の師匠である武市瑞山(半平太)との出会いから土佐勤王党の志士としての暗躍、関わりがあった幕末志士たち、以蔵に関わるエピソードなどについてご紹介します。

剣術の師匠・武市瑞山との出会い

以蔵の人生を決定づけたのは、剣術の師・武市瑞山との出会いでした。剣の道へ目覚めていった以蔵について振り返ります。

足軽から郷士へ

以蔵は、天保9年(1838)土佐郡江ノ口村で足軽の長男として誕生しました。身分差別が激しかった土佐藩において、父はお金で郷士という身分を買います。当時はこのような出来事も珍しくなく、かの有名な坂本龍馬の家もお金で郷士の立場を手に入れたようです。郷士となった父は、外国船に対する土佐沖の海岸防備などに従事。以蔵は郷士の息子として、城下の七軒町(現在の高知市相生町)で暮らすようになりました。

剣術の道に目覚める

晩年の武市瑞山が描いた自画像です。

以蔵は瑞山に師事し、小野派一刀流(中西派)の剣術を学びます。安政3年(1856)9月には瑞山とともに江戸に向かい、桃井春蔵の道場「士学館」で鏡心明智流剣術を修練して中伝を会得。万延元年(1860)8月からは、瑞山に従い同門の久松喜代馬、島村外内らと中国・九州で武術修行に励みました。その後、瑞山と別れた以蔵は岡藩で直指流剣術を学び、剣の技を磨いていきます。

土佐勤王党の志士として

剣術を身につけた以蔵は、やがてその優れた技術を暗殺に使い始めます。それは土佐勤王党の志士となったことがキッカケでした。

天誅と称して次々と暗殺!

文久元年(1861)8月、以蔵は瑞山の結成した土佐勤王党に加盟します。翌年、16代土佐藩主・山内豊範が江戸参勤の途中で朝廷から京都警衛および国事周旋の内勅を受けると、衛士に抜擢され瑞山らとともに上洛。王政復古を目指す土佐勤王党に尽力することになった以蔵は、同志とともに土佐藩下目付・井上佐市郎を暗殺しました。それ以降、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達を「天誅」と称して次々と暗殺していきます。ここで標的にされたのは京都町奉行の役人や与力などで、この行為により以蔵は同志から「天誅の名人」と呼ばれるようになりました。

脱藩し、犯罪に手を染める

文久3年(1863)1月、以蔵は瑞山が在京しているあいだに脱藩し、江戸に向かいました。同志と疎遠になったあと、一時期は今までの暗殺とは正反対にあたる要人護衛などの仕事を請け負いましたが、その後は行方知れずになってしまいます。勢いのあった土佐勤王党も、文久3年(1863)の八月十八日の政変後に失速。土佐勤王党の弾圧が一気に高まり、瑞山も逮捕されました。そして京に潜伏していた以蔵も、金に困って商家に押し入ったところを強盗として捕まり土佐に搬送されたのです。

以蔵の自白と土佐勤王党の瓦解

土佐藩では、京における一連の暗殺や藩の参政・吉田東洋の暗殺に関し、土佐勤王党の同志たちが捕らえられていました。以蔵は拷問に耐えかね、自分の関与した暗殺や同志の名を自白。これにより土佐勤王党は崩壊していきます。瑞山はこのような以蔵の態度を軟弱だと酷評し、党内では以蔵に毒を差し入れるという暗殺計画まで浮上しました。しかし、それは実行されることなく、以蔵は打ち首でこの世を去ります。土佐勤王党のために暗殺に手を染めた以蔵ですが、党の死没者の名簿にその名が刻まれることはありませんでした。

以蔵と関わりがあった幕末志士

以蔵は有名な幕末志士とも関わりがありました。彼らとの関係に迫るエピソードをご紹介します。

坂本龍馬

高知県立民俗歴史資料館所蔵の坂本龍馬の写真です。

瑞山と坂本家が遠い親戚だったことから、坂本龍馬は以蔵の幼馴染だといわれています。その関係からか、のちに勝海舟の護衛の職も紹介しています。こうして人斬りから脱するチャンスを与えた龍馬ですが、結局、以蔵は海舟のもとを去ってしまいました。以蔵は宗門人別改帳(戸籍)から名前を外され斬首されるという悲しい最期を迎えましたが、その死を知ったとき龍馬は号泣したといわれています。

勝海舟

サンフランシスコで撮影された勝海舟の写真です。

龍馬から護衛の仕事をもらったことから、以蔵は海舟とも関係がありました。護衛する以前には、龍馬の勧めで海舟の門下生になったともいわれています。以蔵は海舟に近づく怪しい影を見事に蹴散らし暗殺を食い止めました。のちに海舟はその突出した剣さばきを『氷川清話』で称えており、「人殺しはやめたほうがいい」と忠告したところ、「あのとき私が居なかったら先生は死んでいましたよ」と言われ、返す言葉がなかったと話しています。この事件のあと、海舟はフランス製リボルバーを以蔵に贈ったそうです。

高杉晋作

高杉晋作の肖像です。

土佐藩を脱藩した後、以蔵は高杉晋作のもとで居候していたといわれています。晋作が藩命で京に赴いた際は、以蔵もそれに従い京に滞在しました。また、以蔵は晋作から6両の借金をしており、土佐勤王党の同志が代わりに返済したという出来事もあったようです。

以蔵に関するエピソード

人斬りとして人々に恐れられた以蔵。そんな彼に関するエピソードを2つご紹介します。

愛刀「肥前忠広」は龍馬が貸した?

以蔵の愛刀「肥前忠広」は、龍馬の兄・坂本権平が贈ったとも、龍馬が以蔵に貸したともいわれています。このことから、龍馬は以蔵のことを気にかけていたとも考えられそうです。しかし、やがて強盗するまでに落ちぶれてしまった以蔵はこの愛刀も手放したのだとか……。現在その行方は不明とされています。

辞世の句に込められた想いとは…

以蔵の辞世の句「君か為 尽す心は 水の泡 消にしのちそ すみ渡るべき」(「君が為め 尽す心は水の泡 消にし後は 澄み渡る空」との説もあり)は、師・瑞山について詠まれたものだといわれています。瑞山への恩義に報いるため暗殺に手を染めたものの、当の瑞山からは厳しい言葉をかけられ、最後は名簿から名前も消されてしまった以蔵。そんな彼のやるせない心情が、この美しくも悲しい句には込められているのかもしれません。

幕末の四大人斬りといわれる

剣の腕を買われ土佐勤王党の暗殺者として暗躍した以蔵は、天誅の名人として恐れられました。その生涯は後世、映画や漫画などさまざまな創作作品で取り上げられ、現在でも墓に献花が絶えないほどの人気ぶりだといいます。人斬りとして名を知らしめた以蔵ですが、その根底には瑞山への恩義に報いるという一途な思いがあったようです。そんな純粋な側面が人々を魅了し続けているのかもしれませんね。

 

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