尾高千代(渋沢千代)は、日本を代表する実業家・渋沢栄一の妻となった女性です。令和3年(2021)のNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、渋沢役を吉沢亮さんが、千代役を橋本愛さんが演じることでも話題になっています。
渋沢は生涯に2度結婚していますが、初めて結婚した相手が千代でした。「日本資本主義の父」といわれる偉大な実業家に寄り添った妻とは、一体どのような人物だったのでしょうか?
今回は、千代の生い立ち、渋沢との結婚生活、千代が亡くなったあとの渋沢家などについてご紹介します。
千代の生い立ち
千代はどのようにして渋沢と出会ったのでしょうか?その生い立ちについて振り返ります。
名主の娘としてうまれる
千代は、天保12年(1841)名主・尾高保孝と母・やへ(八重とも)の娘として武蔵国榛沢郡下手計村(現在の埼玉県深谷市)で生まれました。尾高家は米穀、塩などの商売をはじめ、染料に使う藍玉の製造と養蚕、農業などを営んでいたといいます。また、やへは渋沢一族の渋沢宗安が分家して起こした「東の家(ひがしんち)」の血筋で、渋沢元助(渋沢栄一の父)の姉でもありました。
千代の兄・尾高惇忠とは?
千代には惇忠(あつただ、じゅんちゅう)という兄がおり、彼もまた実業家として有名な人物です。惇忠は幼少時から学問に秀でており、自宅に私塾「尾高塾」を開いて近郷の子弟たちに中国の書籍などを教えていました。惇忠はのちに富岡製糸場の初代場長や第一国立銀行仙台支店の支配人などを務めますが、これも渋沢との縁がキッカケだったようです。
渋沢栄一との関係
母・やへが渋沢の父の姉だったことから、千代は渋沢といとこ同士でした。また、渋沢の従兄・渋沢喜作(渋沢成一郎)とも幼馴染だったようです。二人の関係はこれだけに留まらず、渋沢は千代の兄・惇忠が開いた「尾高塾」で学んでいた子弟の1人でもありました。このような状況により、結婚前から二人は親しい仲だったといえるでしょう。
渋沢との結婚生活
いとこ同士だった二人は、やがて結婚して夫婦という関係に変わります。結婚後の千代はどのような暮らしをしていたのでしょうか?
18歳で渋沢に嫁ぐ
安政5年(1858)12月7日、17歳だった千代は18歳の渋沢に嫁ぎました。気丈な性格だった千代は内助の功を発揮し、多忙な渋沢に代わって家を守っていたようです。また二人が結婚した年は、江戸幕府が日米修好通商条約を結び、大老・井伊直弼が安政の大獄を始めた激動の年でもありました。そのような時代の流れのなかで、二人の結婚生活も変化していきます。
夫が尊王攘夷に目覚め…
結婚の翌年、横浜港の開港により尊王攘夷の機運が高まり、安政7年(1860)には桜田門外の変で井伊が暗殺される事件が起こりました。このような緊迫のなか、渋沢は北辰一刀流・千葉栄次郎の道場で剣術を学びはじめ、交流が増えた尊王志士の影響で尊王攘夷思想に目覚めます。
そして文久3年(1863)水戸学を信仰していた惇忠とともに倒幕を決意。これは、高崎城から武器を奪い長州とともに幕府を倒すという計画でしたが、惇忠の弟・尾高長七郎の説得により中止になりました。尊王攘夷思想に目覚めた渋沢はすぐに家を出たため、千代は平穏な新婚生活を送れなかったといわれています。
千代の最期
志士活動に行き詰まった渋沢は一転、人脈を経た推挙もあって徳川慶喜(一橋慶喜)に仕え、慶喜の15代将軍就任に伴い幕臣となります。渋沢がパリ万博に出席する徳川昭武の随行員として渡仏したことで、渋沢と千代はさらに離れ離れの生活が続きました。この間、渋沢は海外からたびたび千代に手紙を送っており、心変わりしないよう懇願しています。このことから、渋沢の千代への一途な思いが伝わってくるでしょう。また、千代の弟・尾高平九郎を養子にして江戸で一緒に暮らすように伝える手紙も残されているため、千代と平九郎はともに生活していたようです。
多忙な夫を支え続けた千代ですが、明治15年(1882)7月、流行していたコレラを患い42歳で亡くなります。この年は、長女・歌子が結婚した年でもありました。
その後の渋沢家
夫を残し先立った千代。彼女が亡くなったあとの渋沢家はどのようになったのでしょうか?
残された子供たち
渋沢と千代のあいだには、長女・歌子、次女・琴子、長男・篤二の3人の子供が生まれました。歌子は法学者・穂積陳重(のぶしげ)と、琴子は大蔵大臣などになった阪谷芳郎と結婚。篤二が長男として渋沢家の跡取りとなりましたが、のちに廃嫡となり、篤二の長男・渋沢敬三が渋沢の跡を継いでいます。その後も渋沢の血筋は受け継がれ、多くの著名人を輩出し現在に至っています。
渋沢と伊藤兼子の再婚
千代が亡くなった翌年、渋沢は伊藤兼子と再婚しました。後妻となった兼子は、武蔵国川越の大富豪だった伊藤八兵衛の次女で、渋沢と結婚する前に18歳で婿養子をとり実家を継いでいました。しかし、事業が失敗し実家は没落。この時に夫と離婚してしまいます。独りで稼いでいくために芸者の仕事を探していたところ、妻をコレラで亡くした渋沢を紹介されたといいます。妾だけは嫌だと数々の縁談を断っていた兼子でしたが、正妻としてならばと、渋沢との縁談を受けたそうです。兼子が渋沢の邸宅に行くと、そこはかつて失った自分の実家だったのだとか。この偶然も二人の縁だったのかもしれません。
内助の功で渋沢を支えた
渋沢栄一は生涯に500~600もの会社設立に関わったといわれています。そんな多忙な渋沢に代わり、千代は内助の功で渋沢家を支え続けたといえるでしょう。残念ながら夫婦仲について詳しいことはわかりませんが、いとこから夫婦となった千代と渋沢は強い絆で結ばれていたのかもしれません。大河ドラマ『青天を衝け』では、二人のシーンがどのように描かれるのかも注目ですね。