徳川家康の江戸幕府開府の裏には、さまざまな武将の支えがありました。家康覇業の功臣といわれる榊原康政もそんな武将の1人です。康政は子供のころに家康の小姓として仕え、その後は徳川家の老中まで担い、この世を後にしました。家康とともに人生を歩んだ康政は、どのような人物だったのでしょうか?
今回は、康政のうまれから家督の相続まで、本能寺の変後の活躍、関ヶ原の戦いと江戸時代、康政の人物像などについてご紹介します。
うまれから家督相続まで
康政が家康に仕えたのは10代の頃のことでした。康政の家系を考えれば、その出会いは必然だったといえそうです。
兄を差し置いて家督相続
康政は、天文17年(1548)三河国上野郷で榊原長政の次男として生まれました。幼名は亀丸、通称は小平太。父は松平家の譜代家臣・酒井忠尚に仕えていたため、康政は家康の陪臣(家臣の家臣)という立場でした。13歳のとき松平元康(家康)の小姓となり、三河一向一揆鎮圧戦にて初陣を果たします。このときの戦功により家康から「康」の字を与えられ、以降は榊原康政と名乗りました。
康政は兄・榊原清政を差し置いて家督を相続しますが、この理由には、清政が三河一向一揆に加担したからなどといった諸説があります。
徳川家康のおもな戦いに従軍
元服後、康政は本多忠勝とともに旗本先手役に抜てきされ、与力50騎を任されます。以降も旗本部隊の指揮官として活躍し、家康が今川家から独立して織田信長と同盟を組むと、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、高天神城の戦いなど、おもな戦いに従軍して力量を発揮しました。天正10年(1582)に本能寺の変が起こった際は、家康の伊賀越えにも同行しています。
本能寺の変後の活躍
信長の死後、康政は徳川家臣としてさらに飛躍していきます。そして、大名として名を刻むことになるのです。
康政、10万石の賞金首に!?
信長の死後、清洲会議により織田家の実権を握った豊臣秀吉は、織田家の筆頭家老だった柴田勝家と対立します。賤ヶ岳の戦いで勝家が敗死すると、天正12年(1584)には秀吉と家康が対立し、豊臣軍と徳川・織田連合軍による小牧・長久手の戦いが勃発。康政はこの戦いで秀吉の甥・豊臣秀次の軍をほぼ壊滅させ、元織田家臣の有力武将である森長可や池田恒興を敗死させるなど活躍を見せました。新井白石の『藩翰譜(はんかんふ)』によれば、康政は秀吉の織田家乗っ取りを非難し、それに激怒した秀吉が康政の首に10万石を懸けたといいます。
しかしその後、康政は天下人となった秀吉と和解し、家康の上洛に随行して官位と豊臣姓を与えられました。秀吉は、「その方の度胸はあっぱれだ」と康政を評価し、祝宴まで開いたそうです。
館林城主に就任し、大名へ
天正18年(1590)、家康の江戸移封に伴い関東総奉行となった康政は、江戸城の修築を手掛けるとともに、上州館林(現在の群馬県館林市)に入り10万石の大名となりました。これは忠勝とならび徳川家臣中第2位の石高で、康政がいかに家康に信頼されていたかがわかるでしょう。
館林城主となった康政は、領地の検地、城郭の拡張、街道の整備、利根川や渡良瀬川の堤防工事などを行い、人々の暮らしの安定をはかることに尽力しました。
関ヶ原の戦いと江戸時代
その後、関ヶ原の戦いが勃発し、勝利した家康は江戸幕府を開きます。康政はこの時代の転換期をどのように過ごしたのでしょうか?
上田合戦で遅参するが……
秀吉の死後、豊臣政権のなかで武断派の加藤清正らと文治派の石田三成らが対立しました。慶長4年(1599)には、武断派が接近を図っていた家康を、三成が誅殺しようとする動きがあったとされ、情報を得た康政はすぐさま家康のもとに向かい身を守ったといいます。翌年、天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いが勃発。康政は主力である徳川秀忠軍の軍監となりましたが、家康からの進発命令を携えた使者が遅れたうえ、信濃上田城の真田昌幸攻めに手間取りました。このとき康政は、上田城攻撃を止めるよう秀忠に進言したともいわれています。
最終的に秀忠軍は攻撃をやめ美濃に向かったものの、悪天候に阻まれ本戦に遅参。家康は秀忠の失態に激怒しましたが、康政のとりなしで事なきを得たため、秀忠は康政に感謝したといわれています。
老中になるも政権から離れる
関ヶ原の戦い後、康政は老中となり、江戸幕府の確立に貢献しました。しかし所領の加増はなく、一説にはこれが原因で家康との仲がギクシャクしたといわれています。一方では水戸への加増転封を打診されるも、関ヶ原での戦功がないこと、館林が江戸城に参勤しやすいことを理由に康政自身が断ったという説もあります。この説では、家康は康政の態度に感銘をうけ、康政に借りがあることを神に誓う証文を与えたそうです。
また、この頃すでに次世代の人材が老中職についていたため、康政は「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と言い、自ら政権から離れていったといわれています。
館林にて眠りにつく
慶長11年(1606)、康政は毛嚢炎(皮膚の病気)を患います。康政に恩のある秀忠は医師や家臣を遣わせて見舞いましたが、康政の病状は悪化し、そのまま館林で亡くなりました。墓所は館林市の善導寺にあります。
康政の死後は、長男・忠政が母方の大須賀家を継ぎ、次男・忠長が若くして亡くなっていたことから、三男・康勝が家督を継承して2代館林藩主となりました。
康政の人物像とは?
家康に貢献した康政は、どのような人物だったのでしょうか?彼の人物像がわかるエピソードをご紹介します。
武勇と指揮能力に長けていた
康政は武勇に優れ指揮官としての能力も高かったことから、忠勝、酒井忠次、井伊直政とともに「徳川四天王」といわれています。姉川の戦いでは徳川軍の先鋒だった忠次隊を追い抜かんばかりの勢いで、忠次は慌てて功を競ったそうです。
また、勇猛ながら乱暴な側面がある家康の嫡男・松平信康に対してはたびたびいさめており、怒った信康から弓で射殺されそうになっても全く動じなかったため、その態度に信康が圧倒されたという逸話も残されています。
似た者同士!?井伊直政とは親友
徳川家重臣の直政とは親友だったといわれています。もともと康政は一回りほど年下の直政が一気に出世したことが気に食わず、その態度を年上の忠次に叱られたそうです。しかし二人はやがて意気投合し、康政は「大御所(家康)の心が分かるのは自分と直政だけ」という言葉を残すほど直政を信頼しました。
直政の死後は、まだ幼かった直政の子・井伊直孝に対し、何かあれば自分に申し付けるようにと家臣を通じて伝えています。
「無」の一字に込められた思いとは……
戦国武将の旗印にはさまざまな意味が込められているといわれますが、康政の隊旗には「無」の一字が書かれていました。これは「無欲無心で家康の下で戦うことを表明した」「常に無名の一将でありたいという志」などの理由があると考えられているものの、実際の意味はいまだに分かっていません。
しかし、戦場で掲げる旗印に配された「無」の文字には、康政にとって何らかの思いが込められていたのでしょう。
家康の代筆をするほど達筆だった!
康政は三河・大樹寺で学び、幼い頃から勉学を好んで本を読んでいたといわれています。また、字が大変上手いことから能筆家としても知られており、家康の書状もよく代筆していたそうです。武勇に優れ行政能力にも長けていた康政は、まさに文武両道の武将だったといえるでしょう。
立身出世し、家康の天下に貢献した
松平家の譜代家臣・酒井家の陪臣という身分から徳川四天王と呼ばれるまでになった康政。低い身分から徳川幕府の老中職となった彼は、まさに立身出世に成功した人物といえるでしょう。知勇兼備の武将だった康政は、忠実に家康に仕え、功臣として名を残しました。晩年は政治から離れましたが、その功績は今後も語られていくことでしょう。