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【三国志:呂蒙】関羽を捕らえて大功績!故事成語にもなった努力の名将

【三国志:呂蒙】関羽を捕らえて大功績!故事成語にもなった努力の名将

孫策・孫権に仕え、呉の武将として活躍した呂蒙。幼いころから勇猛果敢だった彼は、さまざまな戦いで功績を残し、最後には戦わずして関羽を捕らえるという偉業を成し遂げました。その裏には、字が読めないところから猛勉強するといった努力があり、この出来事は故事成語にもなっています。

今回は、呂蒙のうまれから出世するまで、孫権軍の重鎮としての活躍、関羽征伐戦での働き、呂蒙にまつわるエピソードなどについてご紹介します。

うまれから出世するまで

呂蒙はどのような出自なのでしょうか?うまれから出世するまでについて振り返ります。

呉の孫策に取り立てられる

呂蒙を取り立てた孫策

呂蒙は豫州汝南郡富陂県の出身といわれており、字は子明(しめい)といいます。15歳のころ孫策の部将だった姉の夫・鄧当(とうとう)の山越討伐軍にこっそりついて行き、鄧当に叱られるも家に戻らないという勇猛果敢な少年でした。その後、鄧当に仕えていた役人から馬鹿にされ、その役人を殺すという事件を起こします。呂蒙は逃亡したものの、校尉の袁雄を頼って自首。これを聞いた孫策は、呂蒙の非凡さを見抜いて側近に取り立てます。そして数年後、鄧当が亡くなると、張昭の推薦により鄧当の任務を引き継ぎ、別部司馬に任じられました。

次々と戦功をあげる

建安5年(200)孫策が死去し、弟・孫権が跡を継ぎます。呂蒙は孫権に仕え、丹陽討伐や黄祖との戦いで戦功をあげました。建安13年(208)の赤壁の戦いでは、周瑜や程普とともに曹操軍を撃破し、南郡で曹仁を包囲。しかし、周瑜の命令により甘寧が夷陵を占拠すると、曹仁は軍を割いて夷陵に攻撃を仕掛けました。呂蒙は夷陵への救援を進言し、猛攻に耐えていた甘寧を救出。また、夷陵の曹仁軍を敗走させることにも成功します。こうして呉が南郡を占拠して荊州を平定すると、呂蒙は偏将軍に任命されました。

孫権軍の重鎮としての活躍

呂蒙はその後も孫権軍の重鎮として君臨し続けます。彼はどのような活躍をしたのでしょうか?

濡須口の戦い

突撃隊長となった甘寧

建安18年(213)曹操が約40万人の軍勢で濡須に侵攻すると、孫権は約7万人の軍勢で迎撃しました。この濡須口の戦いでは、呂蒙の献策によりあらかじめ築いていた防壁が奏功します。曹操は盧江太守・朱光を派遣して皖に本営を置くと、水田の開墾や魏への内応を計画。そこで呂蒙は皖城を落とすための計略を進言し、突撃隊長の甘寧とともに精鋭を率いて進軍します。これにより皖城の敵は敗退し、呂蒙は盧江太守に任命されました。

劉備と対立する

孫権は赤壁の戦いで劉備と手を組んだあと、荊州の諸郡を貸していました。その後、劉備が益州を手にいれたため、貸していた荊州諸郡の返却を要求します。ところが劉備は暗に拒否し、関羽に守りを固めさせて荊州全域を一人占めしようと企みます。劉備の思惑を悟った孫権は、呂蒙・魯粛らを派遣し荊州を攻撃。魯粛は劉備軍の荊州の軍事総督・関羽をけん制し、呂蒙は長沙・桂陽を降伏させます。その後、関羽と魯粛の会談でお互いが領有する土地を決め、孫権と劉備は和解しました。この荊州戦役の後、孫権軍は引き続き合肥城へ遠征します。曹操が漢中に出征した隙をついて攻撃をしかけたこの「合肥の戦い」では、曹操軍の武将・張遼の追撃を受けましたが、呂蒙・凌統らが殿軍として孫権を守りぬきました。

再度、曹操軍と激突!

建安21年(216)、曹操が自ら10万人以上の軍勢を率いて再び濡須口を攻めると、孫権は呂蒙と蔣欽(しょうきん)に指揮を任せました。呂蒙は水上要塞の上に強力な弩を配備し、敵からの攻撃を防御します。さらに、曹操の陣営がまだ築き終わらないうちに、奇襲をかけて曹操軍を撃破しました。曹操は川を下れなかったことから勝利を掴めずに敗退。この戦いの功績により、呂蒙は虎威将軍・左護軍に昇進しました。また、魯粛の死後は後任として陸口に駐屯し、魯粛軍の兵馬が呂蒙の配下となります。さらには漢昌太守となり、劉陽・漢昌・州陵の地が与えられました。

関羽征討戦での働き

その後、呂蒙は関羽討伐戦で目覚ましい功績を残します。そして、これが彼の最後の戦いとなりました。

関羽を警戒していた呂蒙

この当時、孫権は揚州北部と徐州を巡って曹操と争っていましたが、これに対し呂蒙はある進言をします。それは、「徐州を守る曹操軍の兵は少ないため、関羽の力がなくとも勝利できるが、徐州を攻めてもすぐに奪回されるため意味がない。徐州より関羽のいる南郡を先に占拠し、有利な形勢で征伐し領土拡大したほうがよい」というものでした。呂蒙は、劉備・関羽らは裏切るので腹心の待遇をすべきではないと警戒していたのです。孫権はこの案を受け入れ、関羽を警戒しつつも友好的に付き合いを続けました。

陸遜らとともに関羽軍を破る

呂蒙がその才能を認めた陸遜

呂蒙は孫権とともに関羽を油断させる計略を立て、病と偽って南郡から呉の都である建業に帰還。途中、陸遜から話し合いを求められ、関羽を倒して荊州を手に入れる計画を練るよう勧められます。陸遜の優れた才能を見抜いた呂蒙は、陸遜を自分の代理の武将として孫権に推薦しました。こうして陸遜は孫権に取り立てられることになります。

一方関羽は、呂蒙が南郡を離れたことで呉への備えを緩め、軍を魏の樊城攻めに回していました。そこに孫権軍の全権を任された呂蒙が、陸遜・虞翻・蔣欽とともに進軍。夜襲を仕掛けて兵士を生け捕りにすると、商人のフリをして守備軍を騙し討ちにします。これにより関羽配下の士仁・糜芳は降伏し、呂蒙は公安と南郡の占拠に成功しました。

荊州奪還を果たした

荊州諸郡を取り返した孫権は自ら軍を率いて江陵に向かい、これを恐れた関羽は孫権に降伏するふりをして逃走します。呂蒙は占領地で関羽軍の兵士の家族を保護するなど善政を敷き、それをわざと使者に知らせることで関羽の部下たちの戦意を喪失させました。これにより関羽軍は瓦解し、ほとんどの兵が孫権に降伏。益州への退路も断たれ孤立した関羽はやがて捕虜となり、荊州は平定されます。孫権は関羽の能力を惜しんで生かそうとしましたが、配下の進言を受けて斬首しました。

呂蒙はこの関羽討伐の功績により南郡太守となり、銭1億銭と黄金500斤を賜るなど、かなりの厚遇を受けたようです。しかしまもなく病気となり、孫権が賞金をかけてまで治療させたものの帰らぬ人となりました。

呂蒙にまつわるエピソード

呂蒙はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわる逸話をご紹介します。

虎穴に入らずんば虎子を得ず

幼い頃の呂蒙は母とともに貧しい暮らしをしていました。義兄の山賊討伐にこっそり従軍した際、心配した母から怒られた呂蒙は、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と豪語したといいます。それは、危険を冒して戦いで手柄を立てなければ貧乏からは脱せないという意味でした。これを聞いた母親は、それ以上何も言わなかったそうです。

猛勉強で「呉下の阿蒙」を脱する

呂蒙は幼いころから字が読めないほど無学でしたが、孫権から教養の大切さを諭され勉強を始めました。その結果、儒学者に勝るほど多くの学問を身につけたといいます。魯粛は無学の呂蒙を見下していましたが、のちにその博識ぶりに「呉下の阿蒙にあらず(もう呉にいた頃の無学な蒙ちゃんではない)」と感嘆。呂蒙は「士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし(日々努力しているものは三日も会わなければ目を見張るほど進歩している)」と返したそうです。

『三国志』の著者・陳寿も絶賛!

『三国志』の著者である陳寿は、「呂蒙は勇敢で決断力があった。若い頃は果敢ながらも軽はずみに人を殺すこともあったが、遂には国士(一国を背負って立つ人物)としての器量を備えた」として呂蒙を称えています。また、呂蒙は唐朝以前の中国史を代表する名将「武廟六十四将」の一人に数えられており、北宋時代には正史十七史の中から100人の名将を顕彰した『十七史百将伝』にも選ばれています。

無学から国士レベルにまで上り詰めた武将

少年時代から勇猛果敢で、呉の武将としてさまざまな功績を残した呂蒙。彼はもともと軍人として手腕を発揮していましたが、学問を身につけてからは優れた計略で呉を勝利に導くなど大きな飛躍を遂げました。特に関羽を捕らえたことは、歴史に大きく影響したことでしょう。

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