2021年8月3日(火)よりチャンネル銀河で日本初放送する『新・オスマン帝国外伝 ~影の女帝キョセム~』。大ヒットドラマ『オスマン帝国外伝』シリーズ待望の続編となる本作をより楽しんでもらうべく、前シリーズに引き続き日本語字幕の歴史考察を担当した松尾有里子氏にドラマの歴史背景について語ってもらった。
「壮麗王」後のオスマン帝国
オスマン帝国(1299-1922)の長い歴史のなかで、16世紀の壮麗王スレイマン1世の治世(1520-1566)は帝国の史書に「理想の世」として代々語り継がれてきた。三大陸にまたがる広大な領土を掌中に収め、中央集権的国家体制が完成した彼の治世は、確かに最も輝かしい時代と言っても過言ではない。他方で、壮麗王が去って半世紀を過ぎた17世紀のオスマン帝国は、同時代の人びとの目に「混乱と衰退の世」と映っていたようだ。
オスマン帝国の目指すべき改革を説いた『キターブ・ミュステターブ』の作者は「魚は頭から腐る」と古い格言を引き、有能な指導者の不在が理想の世に遠く及ばない現在の状況を生み出したと悲嘆した。魚(王朝)の頭には本来、英雄然とした皇帝(スルタン)が鎮座するのが理想と考えていたのだろう。しかし、すでにスレイマン1世治世の後期から、君主本人ではなく大宰相をはじめとする軍人政治家たちが専門分化した官僚機構を使って帝国全体を統治する時代が到来していた。したがって、17世紀の「魚の頭」は、実際には軍人政治家やウラマー(知識人)、そして後宮の女人たちから構成されていた。後宮の女性たちの国政への関与は「女人の統治」とも呼ばれ、スレイマン1世の寵姫(ハセキ)ヒュッレムを嚆矢とし、17世紀の母后キョセムの時代に絶頂期を迎える。従来、このような後宮の女性たちの台頭は一時的で「衰退」を予兆する現象と捉えられがちであったが、現在では、新たな統治体制に即した王位継承の変化による必然とも考えられている。
『新・オスマン帝国外伝 影の女帝キョセム』はアフメト1世(在位1603-1617)の寵姫として後宮入りしたキョセムが、ムラト4世(在位1623-40)、イブラヒム(在位1640-48)の母后となり、さらに孫のメフメト4世(在位1648-87)の治世初期まで政権の中枢で活躍をした48年間を描く。「最も偉大な母后」と言われた彼女の目に国家の変容や王朝の危機がどのように映っていたのか。キョセムの奮闘から具体的に明らかとなる内容となっている。
アフメト1世の即位
物語は1603年、アフメト1世の即位から幕を開ける。13歳の若きスルタンの誕生である。アフメトはまた、王位継承にあたり、オスマン家伝統の「子殺し」の慣例を生き延びた後継者の一人であることを独白する。
このような若年での王位継承は、当時からすれば異例な「事件」であった。ただし、過去に唯一12歳で即位した皇帝がいた。コンスタンティノープル征服を果たしたメフメト2世(在位1444-1446,1451-1481)である。しかし彼は即位後まもなく政権の掌握に失敗し、父王が復位した経緯がある。帝国を率いていくには本人の資質、力量に加え、皇子時代からそれを支える組織づくりが不可欠であった。それゆえ、メフメト2世以降、王位継承にあたっては同世代の皇子たちを競わせるのが慣例となった。皇子たちは、成人すると一様に首都を離れ、マニサ、アマスヤなどアナトリア各地の「皇子領」で県知事職を務めるのが倣いであった。彼らはその地で家政を築き、王位継承時に備えた。これは、帝王学の機会が公平に授けられた理想的な王位継承システムに見えるが、内実は王家の分裂にもつながりかねない過酷な戦いとなっていた。スレイマン1世の後継者争いの熾烈さは前作『オスマン帝国外伝』で描かれた通りである。
そして新皇帝は世襲争いに決着をつけるため、兄弟たちを抹殺するのが即位時の慣習となっていた。しかしながら、皇帝即位のたびに一族の男子が殺されるのは、王位継承を不安定化させるものでもあった。現に少年王アフメト1世の即位がそれを如実に物語っている。彼は県知事職を経験せず、帝位を脅かす長兄もいなかった。唯一の弟ムスタファは当時10歳とも3歳とも言われているが、病弱であった。史書によれば、兄弟殺しの先例に心痛していたアフメト1世自身が幼い弟を手にかけることをやめるよう命じたという。ただこうして若き皇帝の言動が後世に伝えられるのは、「口」となり「手」となり政務を動かしていく人物の介在があってのことである。それは第一に母后ハンダンであり、第二に母后を支えた大宰相やウラマーたちであった。母后らがまず下した決断は、未だ割礼の儀式も迎えていない、生殖能力も不確かなアフメト1世に帝国の行く末の全てを委ねる危険を回避することであった。ムスタファは殺害されず、ハレム内の鳥籠のような一室で暮らすうちに精神を病んでいく。
キョセムの登場
アフメト1世には1604年に長子オスマン(後のオスマン2世)が誕生し、その翌年にも第二子メフメトが生まれた。「月のような顔」(マフペイケル)と名付けられた奴隷がボスニア総督からアフメト1世に献じられたのは、この頃である。後にキョセムと呼ばれた彼女はアフメトの寵姫となり、ムラト(後のムラト4世)を筆頭に4人の皇子と3人の皇女を産む。キョセムの出自はボスニア出身とも地中海のティノス島出身のギリシャ系とも言われるが、定かではない。一説には、ギリシャ正教徒の司祭の娘であったという。その名の由来もキョセ(滑らかな肌)の持ち主ゆえか、羊の群れを統率するキョセム(主導者)の資質を備えているゆえか、いずれも不明である。彼女はスレイマン1世の寵姫ヒュッレムと同様に、複数の皇子、皇女をもうけることで、ハレムでの地位を徐々に確立していったと考えられてきた。しかし、近年の研究では第二子メフメトもキョセムの子とされ、アフメト1世治世の初期からハレムの政治に関わっていた可能性も指摘されている。
当時、キョセムの潜在的なライバルと目されていたのは、先帝の母后サーフィエ、母后ハンダン、弟ムスタファの母、皇帝の長子オスマンの母であった。先帝の母后サーフィエと弟ムスタファの母は皇帝の即位後、慣例により宮廷から先帝の妃や後宮から引退した女性たちが暮らす旧宮殿へと退いたと伝えられる。一方、母后ハンダンは1605年に病死し、長子オスマンの母もその後すぐに亡くなったとされる。母后ハンダンの死については、病死とはいえ黒人宦官長との後宮内での対立から毒殺されたのではとの噂が首都を駆け巡った。ドラマではこれらの人間関係について、史実と異なる部分も散見されるが、王位継承システムの変化によって後宮内での権力関係はさらに複雑化し、キョセムは時折生じる権力の空白を巧みに利用して地歩を築いていったことがわかる。
偉大なる母后の時代
オスマン帝国の後宮はスレイマン1世時代の1552年にトプカプ宮殿内に併設されると、皇帝の代替わりごとに拡張し続け、17世紀になると母后のために独立した棟とスルタンの私室を凌駕するほどの豪華な居室が後宮内に用意された。伝来する宮廷の出納台帳を見ても、後宮に暮らす女性たちの数が1575年には49名であったのに対し、アフメト1世治世時の1603~04年は275名に、キョセムが母后となったムラト4世時の1633年には433名と急激に増加していた。アフメト1世以降、皇子の教育は主に後宮内で行われるようになったため、後宮は現皇帝の家族のみならず、皇子とその家族をも養う巨大な組織と化していたのである。
これにより時代を下るにつれ、母后と寵姫それぞれの性格の違いや後宮内で位置付けが明確となっていく。例えば、セリム2世のヌールバーヌー妃、ムラト3世のサーフィエ妃、メフメト3世のハンダン妃らは寵姫として皇帝との間に早くから関係を築き、皇子、皇女を生み、次代の王家の核を形成した。いざ皇子が即位すると、母后となり今度は寵姫時代に培ったノウハウを次代の王家の創出、すなわち皇帝の「再生産」計画を実行に移した。例えば、ムラト3世は1582年長子メフメトの成人を祝う割礼祭を古代ローマ時代からある古競馬場跡で盛大に行った。この割礼祭にはヴェネツィア総督やサファヴィー朝の王族や外国の使節が招聘され、内外の有力者にも後継者を披露する格好の機会となった。このように殺伐とした兄弟殺しの慣例の陰で、寵姫と母后を中心に着々と長子相続への布石が打たれていたと言える。
さらに母后は皇女たちと軍人政治家との結婚を斡旋し、「女婿」を通じて王家の存続を安定化させようと奔走した。これらはすでにヒュッレム時代に萌芽が認められる。とりわけ、安定した政権運営をしていく上で、どの有力軍人政治家にどのようなタイミングで嫁がせるかが重要であった。キョセムは皇女アイシェをまず大宰相ギュミュルジネ・ナスフ・パシャに嫁がせたのち、実に6度も軍人政治家へ降嫁させた。6度目の結婚時の彼女は悠に齢五十は超えていたはずである。一方、軍人政治家にとっても様々な勢力と合従連衡しつつ政権を運営するには、オスマン王家の威光も必要であった。妙齢とは言い難い皇女を押し付けられたとしてもあながち不満もいえなかったであろう。キョセムの皇女ファトマも同じく軍人政治家と政略結婚を繰り返した。
一方、内政だけでなく外交においても母后の活躍が顕著であった。例えば、母后サーフィエはヴェネツィア大使やエリザベス女王と書簡を交わし、贈答品のやりとりなどを通じ「皇室」同士の交流を重視していた。
危機の時代を乗り越えて
17世紀のヨーロッパに目を転じれば、気候変動や新大陸の銀の世界的流通を背景に経済活動の停滞、政治・社会の不安、戦争が頻発する時代を迎えていた。一般に「17世紀の危機」と呼ばれた現象である。オスマン帝国もまさしく同様の問題に直面し、地方ではジェラーリーと呼ばれる反乱分子が跋扈し、対外的には、新式銃を主軸にした欧州の新戦法に対し、建国来の騎兵軍が対応できず、歩兵のイェニチェリ軍の弛緩も顕著となっていた。また貨幣経済の浸透に合致した徴税システムへの転換も喫緊の課題であった。結論からいえば、オスマン帝国はこのような「危機」を克服し、17世紀後半には最大版図を記録、歳入も増加し黒字に転じていた。オスマン史家のテズジャンはこの危機と変革の時代を「第二オスマン帝国」と呼んでいる。ヨーロッパでも同時代、王朝の危機を救った女人たちがいた。スコットランド女王のメアリー(在位1542-1567)、イングランドのエリザベス1世(在位1558-1603)、フランスのアンリ3世(在位1551-1589)の母后カトリーヌ・ド・メディシスである。オスマン帝国の「女人の統治」も後宮の女性たちの権力闘争のみに着目するのではなく、同時代のヨーロッパ宮廷で見られた女性の活躍という歴史的文脈から比較し、再考するのも意義があろう。
上智大学非常勤講師。専門はオスマン帝国史。ドラマ『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~』の日本語字幕における歴史考察を担当。
「新・オスマン帝国外伝 ~影の女帝キョセム~ シーズン1」
放送日時:2021年8月3日(火)放送スタート 月-金 深夜0:00~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/kosem/
出演:アナスタシア・ツィリビウ(アナスタシア[#1-16])、ベレン・サート(キョセム[#17-84])、エキン・コチ(アフメト)、ヒュリヤ・アヴシャル(サフィエ)、テュリン・オゼン(ハンダン)、アスルハン・ギュルビュズ(ハリメ)、メフメト・クルトゥルシュ(デルヴィーシュ)、ベルク・ジャンカト(イスケンデル)、メテ・ホロズオール(ズルフィカール) ほか
制作:2015-2016年/トルコ/字幕/全84話
©Tims Productions