源頼朝の寵臣として活躍した鎌倉時代の武将・梶原景時(かじわらかげとき)。彼はもともと頼朝とは敵対関係にありましたが、敗走した頼朝を救ったことから、鎌倉幕府で重用されるようになりました。にもかかわらず最終的に一族滅亡に追い込まれたのはなぜなのでしょうか?
今回は、景時が源氏に臣従するまで、頼朝のもとでの活躍と頼朝の弟・源義経との対立、梶原景時の変と最期、景時の人物像などについてご紹介します。
平家方から源氏方へ
当初は源頼朝と敵対関係にあった梶原景時。そんな彼が頼朝に臣従するまでについて振り返ります。
源頼朝を救った景時
景時は相模国の豪族・梶原景清(一説に景長)の子で、母は横山党の横山孝兼の娘だといわれています。梶原氏は大庭氏らとともに源氏の家人でしたが、平治の乱で源義朝が敗死したあとは平家に従っていました。治承4年(1180)8月、平家追討の兵を挙げた頼朝が伊豆目代・山木兼隆を討つと、景時は大庭景親とともに石橋山の戦いで頼朝軍を撃破。敗走した頼朝は山中に逃れたものの、景時らの捜索により土肥・椙山のしとどの窟で発見されます。敵に見つかった頼朝はもはやこれまでと自害しようとしますが、景時は頼朝の命を助けました。
降伏後、御家人に列する
九死に一生を得た頼朝は、安房国へ逃れて再挙します。東国武士らの参戦により大軍となった頼朝軍は、平維盛率いる平家軍を撃破。景親は捕えられて斬られ、景時は土肥実平を通じて頼朝に降伏しました。翌年の養和元年(1181)1月、景時は頼朝と対面して御家人に列します。その後は頼朝から信任され、鶴岡若宮の造営・囚人の監視などに関わり、侍所所司(次官)にも任じられました。
頼朝の寵愛、義経との対立
頼朝の命を救った景時は、頼朝の寵臣として活躍していきます。しかし一方、源義経とは対立していきました。
数々の戦いで奮戦!戦功を上げる
寿永3年(1184)1月、景時は宇治川の戦いに嫡男の梶原景季と参陣します。義経の配下だった景季は、頼朝や義経と従兄弟である佐々木高綱と先陣争いをして武名を上げました。また、この戦いのあと、景時は報告書に詳細な戦果を記しており、頼朝はその事務能力や実務能力の高さを喜んだそうです。
同年2月7日に起こった一ノ谷の戦いでは、源範頼が率いる大手軍に属して奮戦します。この戦いで景時は、「梶原の二度駆け」と呼ばれる働きをしました。『平家物語』によると、次男・景高が敵中に一騎駆けし、これを救おうとした景時・景季が敵陣に攻め込み、敵を打ち破ってから後退。しかし、深入りしすぎた景季が戻らず、景時は涙を流しながら再び敵陣に突入して戦ったそうです。このような景時の活躍もあり、合戦は源氏の大勝に終わりました。
九州遠征と壇ノ浦の戦い
同年8月、景時は範頼の九州遠征に従軍します。遠征軍は兵糧や兵船の調達が思うようにいかず苦戦を強いられ、この状況を知った頼朝は義経を派遣しました。これにより義経軍に属することになった景時は、義経と対立します。『平家物語』によれば、景時は船に逆櫓をつけて自由に進退できるようにしようと提案したものの、義経は兵が臆病風にふかれて退いてしまうと反対。「逆櫓論争」として知られるこの逸話のあと、義経は暴風のなかを5艘150騎で出港して屋島を落とし、景時の本隊140余艘が到着したときには平家はすでに逃亡していました。この屋島の戦いで、景時は「六日の菖蒲(時機に後れて役に立たない)」と嘲笑されたといいます。
また寿永4年(1185)3月の壇ノ浦の戦いでは、先陣を希望した景時に対し、義経は自らが先陣に立つと主張。この論争で義経の郎党と景時父子が斬り合い寸前になりました。そのような対立がありながらも合戦は源氏の勝利に終わり、平家は滅亡します。
源義経の死、そして奥州合戦
平家滅亡後、頼朝と対立した義経は鎌倉への凱旋を許されませんでした。兄弟の対立にはさまざまな理由が考えられますが、義経が頼朝から自立しようと身勝手に振る舞ったことが原因といわれています。また、景時が頼朝に送った書状に「義経は追討の功を自身一人のものとしている」と書いたことも一因と考えられるようです。
兄と対立した義経は、院宣(上皇の命を受けて出す文書)を得て頼朝追討の兵を挙げます。しかし、味方するものは少なく、不利に陥った義経は奥州平泉の藤原秀衡のもとへ逃亡するも、秀衡の跡を継いだ藤原泰衡により殺害されました。義経の首は鎌倉に送られ、景時と和田義盛が検分したといいます。その後、景時は頼朝の奥州合戦に従軍し、奥州藤原氏を滅ぼしました。
鎌倉幕府の侍所別当に就任
景時はその後も鎌倉幕府内で台頭していきます。建久元年(1190)には頼朝の上洛に供奉し、右近衛大将拝賀の随兵7人に選ばれて参院の供奉を担当しました。これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功(じょこう=売官制度の一種)推挙が与えられた際はその一人となりましたが、賞は三男・梶原景茂に譲ったようです。また、義盛に代わって侍所別当にも就任。頼朝の死後は第2代将軍・源頼家に重用され、十三人の合議制に列するなど幕府宿老として権勢をふるいました。
梶原景時の変と最期
2代にわたり重用された景時ですが、やがて御家人たちと敵対し梶原景時の変が起こります。景時はどのような最期を迎えたのでしょうか?
景時に対する不満が噴出し……
この頃、頼家と有力御家人の対立による不祥事が続いていました。そんな中、結城朝光が「忠臣は二君に仕えずという。故将軍が亡くなった時に出家しようと思ったが、ご遺言により叶わなかったことが残念である」と嘆くと、これが景時の耳に入ります。激怒した景時は、頼家への誹謗(ひぼう)だと報告し断罪を要求。これに対し朝光は、義盛ら御家人に呼びかけ、諸将66名による景時排斥を求める連判状を作成し頼家に提出しました。景時は御家人たちを取り締まる目付役だったため恨みを買いやすく、頼朝の死後も権力を持ち続けたことで御家人たちの不満が噴出したのです。頼家が景時に連判状を下げ渡すと、景時は弁明することなく、一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に退きました。
梶原一族、滅亡する
正治2年(1200)1月、景時は一族を率いて上洛しようとしましたが、道中の駿河国清見関で在地の武士や相模国の飯田家義らに襲撃されます。ここで嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂らが討たれ、景時も付近の山上で自害し、梶原一族33人が討ち死にしました。これは頼朝の死から約1年後の出来事で、梶原一族が滅亡した地は「梶原山」と呼ばれています。景時の上洛理由には諸説あり、九州の軍兵を集めて反乱を企てたという説や、京都の武士として朝廷に仕えようとしていたという説などがあるようです。
梶原景時の人物像とは?
重臣として仕えたものの最後は一族滅亡に追い込まれた景時。彼の人物像がわかるエピソードをご紹介します。
景時は讒言ばかりの嘘つき?
景時は讒言(ざんげん=他人を陥れるため、ありもしない事を目上の人に告げること)で有名な人物だったようで、さまざまな逸話が残されています。夜須行宗が壇ノ浦の戦いでの恩賞を願ったとき、景時は「夜須という者は知らない」と言い訴訟になりました。しかし、証人によって行宗の戦功が明らかになり、景時が敗訴しています。また、畠山重忠が罪により謹慎させられるも赦免された際は、「重忠が恨みに思い謀反を企てている」と頼朝に言上し、重忠の自害未遂を招きました。人望のある重忠を陥れようとしたことから、景時は御家人たちに大層恨まれたそうです。一説には、義経と頼朝の不仲も景時の讒言が原因ではないかといわれています。
和歌もたしなむ教養人
梶原氏は優れた歌人を輩出した徳大寺家と交流し和歌を学んでいました。そのため、当時の東国武士には珍しく教養があったといわれています。頼朝が上洛した際、道中の遠江国橋本宿で頼朝と和歌を交わしたほか、奥州合戦の際にも和歌も交わしたようです。教養人だった景時の和歌は「武家百人一首」にも選出されました。
「悪人」から「優れた官僚」へ評価が変化
源頼朝の命を救い、その後は鎌倉幕府の宿老として活躍した景時。義経と対立するも頼朝からの信任は厚く、京の貴族からも一目置かれていたようです。江戸時代の勧善懲悪が好まれる講談などでは、義経を悲劇の英雄とする一方、景時は敵役の悪人という評価を受けていました。しかし現在では、優れた官僚としても評価されているようです。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、中村獅童さんがどのような景時を演じるのか楽しみですね。
コメント