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【三浦義澄】代々続く源氏の忠臣!鎌倉殿を支えた人物像とは?

【三浦義澄】代々続く源氏の忠臣!鎌倉殿を支えた人物像とは?

三浦義澄は源頼朝の鎌倉幕府樹立に貢献し、後を継いだ源頼家を補佐した人物です。令和4年(2022)放送予定のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では佐藤B作さんが義澄を演じますが、頼朝と頼家、2代に渡り鎌倉殿を支えた義澄はどのような人物だったのでしょうか。今回は、若き日から生涯を通して源氏を支えた忠臣、義澄の人物像をご紹介します。

源氏に仕える一族

代々源氏に仕える三浦氏に生まれた義澄。生まれから平家打倒に動くまでを振り返ります。

平治の乱で源氏十七騎のひとつに数えられる

義澄は相模国三浦郡矢部郷の出身で、大治2年(1127)に三浦氏の一族である三浦義明の次男として誕生しました。明確な時期は不明ですが、上総常澄の加冠によって元服し、義澄と名乗ったとされています。三浦氏は桓武平氏の流れをくむ一族で、その祖とされる三浦為通が前九年の役で武功を上げたことにより、頼朝の祖先である源頼義から相模国三浦の領地を与えられました。義澄は平治の乱で源義平に従って上洛し、源氏十七騎の一人として活躍するも、平重盛との戦いに敗れ、郷里へと落ち延びます。そして長寛2年(1164)に兄である杉本義宗が亡くなったことで、義澄が三浦氏の家督を継ぎました。

平家打倒の令旨

治承4年(1180)後白河法皇の子の以仁王は平家打倒を決意し令旨を発しました。これにより、諸国の源氏は平家打倒へと動きだします。伊豆国で流人となっていた源頼朝も同年8月に挙兵。伊豆目代の山木兼隆を打倒した後、石橋山の戦いをむかえます。この戦いには義澄も参加するはずでしたが間に合わず、結果的に頼朝は敗北してしまいました。

頼朝の挙兵に間に合わなかった義澄

義澄はなぜ石橋山の戦いに間に合わなかったのでしょうか。原因とその後の義澄の動きを見ていきましょう。

衣笠城合戦で父・義明が戦死

『源平盛衰記』より、三浦義明の肖像です。

頼朝軍300騎に対し、平家軍3000騎。明らかに不利な状況だった石橋山の戦いにおいて、頼朝は義澄ら三浦一族の到着を待ち望んでいました。義澄は頼朝に合流すべく和田義盛ら三浦一族500騎と三浦半島を出ましたが、豪雨による増水のために川を渡ることができなかったのです。停滞している最中に頼朝軍の敗北の知らせが入り、義澄はやむを得ず引き返します。

その時、義澄らが領地へ戻る途中に平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇。義澄と重忠は同じ東国武士で縁戚関係もあったため、このまま戦いは起こらないと思われました。しかし、遅れて来た義盛の弟・和田義茂の介入により状況が一変。鎌倉の由比ヶ浜で戦いが勃発し、両軍に被害が出る事態となりました。

治承4年(1180)8月末に起こった衣笠城合戦では、重忠ら平家方の大軍が三浦半島に押し寄せ、義澄らは本拠の衣笠城で防戦にあたります。しかし、平家方の攻撃に耐えきれず船で海上へ逃げることを決め、城に一人残った義澄の父・義明は討ち死にしました。義澄らを頼朝に合流させるための、命をかけた源氏への忠義といえるでしょう。

正室の父・伊東祐親の助命に動く

ちなみに、義澄の正室の父親は、石橋山の戦いで頼朝に敵対した伊東祐親でした。祐親は富士川の戦いで捕まり、義澄は義理の父の助命に動きます。義澄の嘆願は叶いましたが、養和2年(1182)2月、残念ながら祐親は相模国の義澄邸で自ら命を絶ったと伝えられています。

また、父・義明の仇ともいえる重忠が頼朝に帰順した際は、かつての恨みを持ちだすことなく、重忠と共に頼朝を支えることを選択しています。器量が大きく慈悲深い義澄の人柄をあらわすエピソードといえます。

頼朝の宿老として活躍

義澄は千葉常胤、上総広常、土肥実平らと共に頼朝の宿老となりました。一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、奥州合戦における義澄の姿を振り返ります。

平家滅亡

歌川貞秀による『源平八島檀之浦長門國赤間関合戦之圖』です。

宿老になった後も、義澄は一ノ谷の戦いで源範頼に従い平家の退路を断つ役割を担ったり、壇ノ浦の戦いでは水軍の先陣を務めたりするなど、数々の武功を上げていきます。平家滅亡に大きく貢献した人物だったといえるでしょう。

奥州合戦

毛越寺 山白王院所蔵の『三衡画像』より、藤原秀衡の肖像です。

鎌倉幕府と奥州藤原氏との間で起こった奥州合戦でも、義澄は武功を上げます。100年に渡って陸奥・出羽両国に君臨していた奥州藤原氏を滅ぼしたことで、頼朝の武家政権が確立しました。

また、頼朝が上洛した際にはこれまでの功績により、右近衛大将拝賀の布衣侍7人に選ばれて参院の供奉をしています。加えて、これまでの勲功として頼朝公に御家人10人の成功(じょうごう=売官制度の一種)推挙が与えられた際にも義澄は選ばれましたが、子の義村に譲りました。

十三人の合議制

頼朝の死後、2代将軍・頼家を補佐する十三人の合議制が発足します。頼朝の時代から宿老として活躍した義澄も、13人のひとりに選ばれました。

鎌倉殿を補佐

建仁寺所蔵の源頼家像です。

義澄が選ばれた十三人の合議制は、頼朝の死後に発足した鎌倉幕府の集団指導体制です。建久10年(1199)の頼朝の急死により、嫡子の頼家が第2代鎌倉殿として頼朝の地位を継承しました。『吾妻鏡』には、頼家がそれまでの慣例を無視して恣意的判断をおこなう場面がたびたびあったと記されており、頼家の独裁を抑制するために十三人の合議制が発足したといわれています。

しかし、合議制においても十三人全員で合議された例はなく、頼家の権力や政治制度を補佐するために発足した体制ではないかとする説もあります。

合議制の解体

十三人の合議制は、正治元年(1199)に梶原景時が失脚し、正治2年(1200)に義澄や安達盛長が病死したことで解体します。頼家政権も北条氏との権力抗争に敗れ、次の代ともいえる北条氏へと鎌倉幕府の実権は移りました。

源氏2代に渡り仕えた武将

先祖代々源氏に仕えてきた一族の下で生まれた義澄は、若き頃から源氏の忠臣としてさまざまな場面で活躍。挙兵した頼朝に付き従い平家を打倒し、鎌倉幕府樹立にも大きく貢献しています。頼朝亡き後も、十三人の合議制の一人として頼家の補佐を務めあげるなど、生涯を通して源氏や鎌倉幕府に捧げた人物といえるでしょう。

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