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【丹後局】日本の楊貴妃!?後白河法皇の寵愛を受けた傾国の美女とは

【丹後局】日本の楊貴妃!?後白河法皇の寵愛を受けた傾国の美女とは

丹後局(たんごのつぼね)は、後白河法皇の寵愛を受け政治の場にも登場したことから「日本の楊貴妃」と呼ばれた人物です。今回は、丹後局の生い立ちから後白河法皇の寵愛を受け、朝廷で権力を持った経緯や、源頼朝とも親密な関係にあったエピソードなどをご紹介します。

生い立ち〜後白河法皇の寵愛

丹後局の生い立ちから、後白河法皇の寵愛を受けるに至るまでをご紹介します。

平安時代末期に生まれる

丹後局は平安時代末期に生まれ、父は法印・澄雲とも上座・章尋とも言われています。母については諸説あり、建春門院(平滋子)の乳母である平正盛の娘・政子(若狭局)とする説や、若狭局は伯母であるとする説もあります。

若狭局は平滋子が女御となって以来、正式に内裏女房となり、滋子が崩御した後でも内裏で権勢をふるっていました。こうしたコネクションにより、丹後局も早くから女御・滋子に仕えていて、その美貌と聡明な振る舞いから法皇の目にとまりやすかったのではないかとされています。

そもそも若狭局が平滋子の乳母となったのも、若狭局の母が平家の出であり、その縁がつながったものとする説があるようです。

夫は平清盛に処刑される

平清盛の肖像です。

丹後局は後白河法皇の側近であった平業房に嫁ぎ、後の権中納言となる山科教成らを産みます。治承3年(1179)11月、平清盛がクーデターを起こし、後白河法皇は鳥羽殿に幽閉されてしまいます。源頼朝による打倒平家挙兵の9ヶ月前のことでした。

このとき、側近だった業房も解官、伊豆国に流刑となります。さらに業房は脱走しようとしたため、清盛の怒りを買って捕えられ、福原にて拷問の末、処刑されました。業房は平家一門ではあるが、清盛の近親者ではないため、このように裏切りに対して厳しい処遇が与えられたものと考えられます。

なお、教成は父の処刑後、母である丹後局が後白河法皇の寵妃となったことで、法皇の命を受け幼い頃に藤原実教の養子となりました。

丹後局は2人いた!?

丹後局は高階栄子(たかしなのえいし、または、よしこ)という名前も持っていますが、当時、女性の名前は隠されていたため、「高階栄子」という名前は、位や土地の権利をもらうなどの際に便宜上つけられたものとされています。そのため、本名はわかりません。

「局」とは、貴人に仕える侍女のうち、特に身分が高い者に対してつけられる敬称であり、有名なところでは徳川幕府3代将軍であった徳川家光の乳母、春日局らがいます。このように、丹後局という名前もあくまで便宜上の名前であり、平安時代末期〜鎌倉時代初期という同時期に、丹後局という人物はもう一人いたことがわかっています。

もう一人の丹後局は、源頼朝の乳母(比企尼)の娘であり、島津忠久を産んだとされています。こちらの丹後局は源氏側と縁が深く、京の二条院を出た後は関東へ下って安達盛長に嫁いだようです。「吾妻鏡」の記述によれば、北条政子が源頼家を妊娠した際、着帯の儀で給仕を務めています。

後白河法皇の寵愛を受け「日本の楊貴妃」に

丹後局が後白河法皇の寵愛を受け、日本の楊貴妃と呼ばれるに至った経緯や、その後のエピソードについてご紹介します。

夫の死後、後白河法皇の世話係に

後白河法皇の肖像です。

業房が処刑された後、丹後局は鳥羽殿に幽閉されていた後白河法皇の近侍(世話係)となりました。類い稀なる美貌の持ち主だったとされ、たちまちのうちに後白河法皇の寵愛を受けたとのことです。治承5年(1181)2月に清盛が死去すると、後白河法皇は政治の場に復活し、10月には丹後局が後白河法皇の皇女・覲子内親王を出産します。

傾国の美女と噂される

長女の出産を機に、丹後局は後白河法皇の寵愛と信任を一身に受けることとなり、政治の場にも口出しできるほどの権力を持つようになりました。「玉葉」の記述によれば、右大臣・藤原兼実(九条兼実)が丹後局について「この頃の政治は、彼女の唇ひとつに左右される」と言ったそうです。その他、朝廷内では中国の故事に準えて傾国の美女、楊貴妃に例えられるほどでした。

平家の都落ち

大阪府にある後鳥羽天皇行宮跡碑

寿永2年(1183)7月、源義仲を中心に源氏が優勢となり、平家は安徳天皇(平清盛の娘・徳子の子)を連れて三種の神器を持ち、都落ちします。当然、安徳天皇を認めていない後白河法皇側は、8月に新たな天皇を三種の神器がないまま即位させました。このとき、新天皇に後鳥羽天皇を立てるよう、後白河法皇に進言したのが丹後局だったとされています。

平家滅亡後、文治2年(1186)からは、朝廷側から鎌倉の頼朝と連絡・交渉する役割を担っていて、大江広元と何度も交渉にあたっていることもわかっています。文治3年(1187)2月には従三位に任ぜられ、建久2年(1191)6月、法皇と丹後局の娘である覲子内親王が宣陽門院という院号を受けると、これに伴って丹後局は従二位となりました。

後白河法皇の死と出家、晩年

建久3年(1192)に後白河法皇が崩御すると、丹後局も出家しました。法皇の遺言で山科に所領を受け、この山科荘が後に息子である山科教成の苗字の由来となります。娘の宣陽門院も同じように遺言で長講堂領を与えられ、母娘の政治への介入は続きました。

後白河法皇の死後、朝廷内では兼実が権勢を誇るようになりました。兼実は前述の「玉葉」で丹後局の政治介入に言及したとされる人物であり、頼朝の後ろ盾を得ています。頼朝と丹後局は互いに贈り物をし合う関係は築いていたものの、頼朝の娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させようとする動きには消極的であり、結局、丹後局は兼実に反発する土御門通親と兼実を失脚させました。この一連の政変は「建久7年の政変」と呼ばれています。

その後、後鳥羽天皇が若年だったことにより、朝廷の実権は丹後局と通親が握ることになります。しかし、建仁2年(1202)に通親が死去、後鳥羽天皇は上皇となり本格的に院政を始めたことで、丹後局の権威は急速に失墜します。

丹後局は朝廷から去り、亡き夫である兼房の所領にあった浄土寺に移り住みました。この際、「浄土寺二位」と称されるようになったとされています。没年は異説も多く見られますが、有力なのは建保4年(1216)の2月または3月です。

日本の楊貴妃に例えられ、権力のトップに上り詰めた女性

丹後局は後白河法皇の寵愛を受け、政治の場にもたびたび口を挟んでいることから、朝廷内では日本の楊貴妃にも例えられることがありました。しかし、彼女は単なる私利私欲に走る権力志向の人間というわけではなく、力を増してくる鎌倉幕府と朝廷との連絡・交渉役も務めるなど、政治的手腕にも長けた女性だったと考えられます。権力のトップに上り詰めるだけの能力は十分にあったのでしょう。

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