戦国時代にはさまざまな武将が戦地で命を落としましたが、中でも特に壮絶な死を遂げた武将が島津豊久です。豊久はその猛将ぶりからしばしば漫画やゲームで取り上げられるため、名前を聞いたことがある方もいるかもしれません。関ヶ原の戦いでは勇猛な撤退戦「島津の退き口」を先導したことでも知られています。
今回は、豊久の生まれから戦場での活躍、残された逸話などについてご紹介します。
豊久の生い立ちと戦場での活躍
豊久が生まれたのは戦国最強とも評される、九州最大勢力の島津家です。豪傑揃いの島津四兄弟を父にもつ彼は、若くして実力を発揮しました。
幼少期から初陣まで
豊久は、元亀元年(1570)島津四兄弟の末弟・家久の子として生まれました。天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で初陣を果たし、元服前にも関わらず敵の首級1つを討ち取ります。
父の家久は四兄弟の中で唯一側室の子でしたが、若年の頃から「軍法戦術に妙を得たり」と祖父に評価されており、兄弟がその戦功を妬んだという噂もあるほどでした。豊久は父譲りの戦闘センスをいかんなく発揮したのです。
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18歳で家督を継承する
天正15年(1587)「戸次川の戦い」で父に従い先陣を切るも敗北。天正15年(1587)には父が急死したため、家督を継いで日向佐土原城の城主となります。
島津氏はこの年に豊臣秀吉に降伏しており、家久は豊臣の陣中から帰った直後に亡くなりました。これは暗殺ともいわれており、秀吉はその疑惑を避けるかのように、豊久に所領を与えるよう命じたといいます。
父を失った後の豊久は、伯父・義弘によって実子同様に養育されました。
秀吉のもとで戦功をあげる
その後、豊久はさまざまな戦いで活躍をみせます。天正18年(1590)小田原征伐に従軍したのち、文禄元年(1592)文禄・慶長の役で朝鮮に出兵。ここでの活躍は目覚ましく、「豊久跳んで敵船に移り敵を斬ること麻の如し」と記録されるほどでした。敵から奪った船を献上した際は感謝の書状をもらっており、敵の首級も複数討ち取るなど戦功をあげています。慶長3年(1598)帰国を命じられると、6年間滞在した朝鮮から日本に戻りました。
有名な「島津の退き口」とは?
多くの戦いで武勇を発揮した豊久ですが、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」は最も勇猛果敢だったといえます。彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。
関ヶ原の戦いに西軍として参加
豊久は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに義弘とともに参加します。当初義弘は東軍の援軍要請に応えましたが、やむを得ない事情により西軍として戦うことを決意。しかし義弘には本国の軍を動かす力がなく、手勢がわずかだったことから石田三成らに軽視されてしまいます。さらに大垣での軍議では、夜襲を提案したものの田舎戦法だと笑われました。
そのような事情もあり、いざ戦いが始まると豊久らは攻撃せず静観を決め込みます。驚いた三成は加勢を要請しますが、使者が下馬しなかったため豊久は激怒しました。このような島津方の動きは、西軍敗北の一因となったようです。
多くの犠牲を伴った決死の敵中突破
戦局が東軍に有利となると、島津軍は戦場で孤立し退路を断たれました。義弘は切腹を覚悟しますが、「戦後の難局に立ち向かうには義弘公が生き残らなければならない」という豊久の言葉を受け、薩摩に帰ることを決意します。
このとき義弘がとった方法が、敵の陣中を正面から突っ切る敵中突破です。しかし東軍の追撃は激しく、島津隊は「捨てがまり(捨て奸)」で時間を稼ぎました。これは最後尾の約10人が鉄砲で迎撃し、全員死ぬと次の10人がまた迎撃する捨て身の戦法です。
死を覚悟した島津隊の形相はただならぬもので、東軍の勇将・福島正則は手出ししなかったといいます。また本多忠勝は落馬させられ、松平忠吉や井伊直政も重傷を負いました。
豊久の最期
「島津の退き口」では、家老・長寿院淳盛に続き、豊久も捨てがまりを務めました。付き従う13騎とともに敵軍に入った豊久は、死闘を繰り広げて討ち死にします。その最期は壮絶で、複数の槍に突かれて3度宙を舞い、陣羽織はボロボロになったといいます。
このような豊久らの活躍により、義弘は無事に薩摩に帰還しました。
残されている逸話
生涯を通して勇猛果敢だった豊久ですが、若くして亡くなったためかその人物像はあまり知られていません。ここでは彼にまつわる逸話をご紹介します。
家臣想いで美少年だった
薩摩藩の伝承によれば豊久は美少年だったようで、残された史料には「比べるものがないくらい美しく、知略と武勇にも優れた少年」「無双の美童」「美少人」といった記載があります。
また家臣一人一人に自ら酒を振る舞うなど思いやりのある人物だったようで、家臣らは自分のことを想ってくれているのだと感じ、より一層奮闘したということです。
義弘を慕い自ら身代わりになる
「島津の退き口」で捨てがまりを務める際、豊久は義弘の別称である島津惟新を名乗り敵陣に進撃したといわれています。彼は義弘の身代わりになることを宣言し、見事その役目を果たしたのです。
豊久は自分を養育してくれた義弘に恩義を感じていました。関ヶ原の戦いで義弘のもとに真っ先に駆け付けたのも、恩義に報いるためだったのでしょう。
豊久の死にまつわる異説
豊久は関ヶ原の戦いで討ち死にしたとされますが、戦地から落ち延びたという異説も残されています。1つは無念の死を遂げ祟りで草木が生えなくなったというもの、もう1つは看病してくれる村人が疑われないように自刃したというものです。
なお、生き延びた義弘は豊久の討ち死にに確証がもてず、秘密裏に安否を探らせたといわれています。
戦国一の壮絶な死を遂げた武将
豊久には子が無く、姪の婿・喜入忠栄が家督を継承したものの断絶してしまいます。そのため島津久雄が継嗣に入り、永吉島津家として受け継がれました。
島津氏が治めた薩摩藩は、幕末には雄藩として強い影響力をもつようになります。その源流は豊久が見せた死闘や勇猛さにあったといえるでしょう。
豊久の討ち死に場所は諸説あり、墓所も複数存在しています。永吉島津家当主が入手した豊久の鎧は、現在でも鹿児島市にある尚古集成館で見ることができます。
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