ヨーロッパへ渡った江戸幕府の使節たちが、船内で初めて「カレー」を目撃した4年後、あの渋沢栄一が同じような体験をしている。
幕末のラストイヤーともいえる慶応3年(1867)、当時28歳の幕臣だった渋沢は、フランスへ渡った。パリで行われる万国博覧会に出席する将軍・徳川慶喜の弟、昭武(あきたけ)に従者として随行したのだ。
渋沢が当時の旅の様子を書き残した「航西日記」によれば、カレーと出会ったのは、フランスへ向かう途中で立ち寄ったセイロンでのこと。
「カレイとて、胡椒を加えたる鶏の煮汁に、桂枝(けいし)の葉を入れたるものを名物とす」
つまり「チキンカレー」のことだ。カレー(カレイ)という言葉を日本人として初めて用いたのは渋沢ということになる。しかし残念ながら、渋沢はこれを食べなかったようで味の感想は書かれていない。
それから4年後の明治4年(1871)、山川健次郎という旧会津藩士が、船内でカレーとの出会いを果たす。かつて白虎隊の一員だった人物で、この年まだ16歳だった。
山川はアメリカ留学のため、ジャパン号という船で太平洋を横断中、なんとカレーを注文している。この時の体験をつづった記録を見てみよう。
「船に乗って、最も苦しんだのは食べ物です。何しろ西洋の食物なんて食べたことがない。第一に、あの変な臭いに困った」
「食べなきゃいかんと医者に言われたので、なんとか『ライスカレー』を食ってみたが、あの上につけるゴテゴテしたものは食う気になれない。代わりに、アンズの砂糖漬けが添えてあったから、これを副食にして米飯を食し、飢えをしのぎました」(山川老先生六十年前外遊の思出から抜粋)
以上が、山川少年とカレーとの出会いだった。彼がカレーを注文したのは、食べ慣れた米が使われていた料理だったからで、上にかけるべきカレーは口にせず、皿に乗ったライスだけを食べたのである。
アンズの砂糖漬けとは、今でいう福神漬けのようなものだろう。それだけで食べるのは味気なかったはずだが、和食で生まれ育った16歳の少年に、いきなりのカレーはハードルが高すぎたか。
残念なのは渋沢も山川も、その後にカレーを食べた記録がないことだ。以降、洋食が日本へ広まるので、口にしたとしてもおかしくはないのだが・・・。
山川が船内でカレーと出会った翌年の明治5年(1872)、『西洋料理指南』『西洋料理通』という料理本が出版され、これに初めてカレーのレシピが紹介される。
ここで注目してほしいのは、インド料理ではなく西洋料理であることだ。やはり日本のカレーの元祖は、インドのカレーではなく、インドを植民地としていたイギリス人が発展させた「欧風カレー」なのである。
そして明治6年(1873)には日本陸軍の食堂の昼食メニューに「ライスカレー」が加わり、民間では明治10年、東京の風月堂が「ライスカレー」を提供し始める。
すでに「武士の世」も過去となった明治後期の日露戦争のころ、日本海軍がイギリス海軍のレシピを参考にして、カレーを正式採用する。
民間には即席「カレールウ」も販売されるようになり、大正時代以降は家庭にも広まっていく。カレーはご飯好きの日本人との相性も抜群であり、国民食の地位を着々と築いていったのである。
3回に分けて連載した「カレーと武士の出会い」、これにて終了としたい。
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上永哲矢(うえなが てつや) 通称:哲舟。歴史コラムニスト、フリーライター。
『時空旅人』『歴史人』などの雑誌・ムックに、歴史や旅の記事・コラムを連載。
三国志のほか、日本の戦国時代や幕末などを得意分野とする。
イベント・講演にも出演多数。神奈川県横浜市出身。
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