6月の第3日曜日は父の日ですね。
普段は言えないお父さんへの感謝を表す大切な一日です。母親と違って父親に感謝を示すのは結構照れくさいもの。しかし、父親というのはいつの時代にも子供を大事に思っているものです。父の日にちなんで、良きパパとなっている偉人たちをここでご紹介していきます。
維新の三傑も家族団欒が大好き!大久保利通
まずは、幕末から明治にかけて活躍した維新の三傑こと大久保利通です。大久保といえば、薩摩藩の下級藩士からトントン拍子に出世し、明治政府の中枢を担う地位にまで上り詰めます。寡黙で冷静さを保ち、その威厳から誰も意見がまともにぶつけることが出来なかったといい、初代内閣総理大臣の伊藤博文でさえ、恐縮したそうです。
そんな大久保ですが、家庭ではとても優しいパパでした。子供たちは怒られた記憶がなく、公務で忙しい中、出勤前に娘を抱きかかえるのが非常に楽しかったそうです。また、子供たちは大久保が帰宅するのを心待ちにし、我先にと帰宅した大久保の靴を脱がせようとしたところ、大久保は簡単に脱げないように踏ん張り、子供たちが後ろへ転げまわるのを見て一緒になって大笑いをしていたそうです。
家族思いの大久保は、毎週土曜日は必ず家族で食事を取るようにしており、家族団欒の土曜日が待ち遠しかったといいます。
激動の時代、仕事では厳格な政治家であり続け、家庭では子煩悩なパパという、イメージとは違った一面を持っていたのですね。
平氏の棟梁も愛妻家で子供思い…平宗盛
源平の合戦といえば、源頼朝・義経兄弟率いる源氏一族と平清盛率いる平氏一族の長い戦いを指しますが、戦いに明け暮れる中で、平清盛の跡を継いで平氏の棟梁になったのが三男の平宗盛でした。
宗盛は、軍記物の平家物語などで極めて愚直な将として描かれており、長男の重盛や弟の知盛に比べて酷い扱いを受けています。
正室の清子が亡くなった時、宗盛は悲しみに明け暮れて官職を辞任しています。妻の死で仕事を辞めてしまうのは、現代でもあまりないケースですが、愛する妻を失った悲しみはそれだけとてつもないものだったといえるでしょう。
また、息子の清宗も溺愛していました。壇ノ浦の戦いでは入水して自決を図るも、清宗が源氏に捕えられたのをみて、自らも捕まります。鎌倉までの道中から頼朝の前に出るまで、息子のために最後まで恥をかきながらも助命を願い出たといい、処刑される寸前まで清宗の身を案じていたといいます。
時代が違えば、きっと良きパパとして家族思いの家庭を築いていたでしょうね。
甲斐の虎も人の親?武田信玄
戦国大名で最強といえば、必ず名前が上がるのが武田信玄でしょう。
甲斐の虎と称され、当時の織田信長を恐れさせた唯一の存在でもある信玄。実は彼も子煩悩の一面がありました。
信玄自体は父親を追い出して家督を継ぎますが、信玄と継室の三条の方の長女として生まれた黄梅院をことのほか溺愛していたようです。
黄梅院は甲相駿三国同盟の為に北条氏政へ嫁ぎます。信玄は弘治3(1557)年に黄梅院のために、安産の神である「富士御室浅間神社」に安産祈願をしたといいます。信玄の駿河侵攻後、三国同盟は消滅し、黄梅院は甲斐へと送り返され、氏政と離縁させられます。
その半年後の永禄12(1569)年6月に27歳という若さで、黄梅院はこの世を去ってしまいました。信玄はたいそう悲しみ、薄幸な黄梅院のために、現在の甲斐市竜地に菩提寺黄梅院を建立し葬りました。今でも墓碑が現存しています。
戦国最強と呼ばれた甲斐の虎にとっても、娘は可愛らしい存在だったに違いありません。
普段は厳格な偉人たちも、やはり家庭では家族を大事にしていたと思うと、なんだか親近感がわきますね。
父の日はお父さんに優しい言葉をかけてねぎらってあげましょう。
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