歴人マガジン

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【 梵天丸もかくありたい 】 伊達男・伊達政宗のダテなエピソード

【 梵天丸もかくありたい 】 伊達男・伊達政宗のダテなエピソード

旧暦5月24日は、伊達政宗公の命日です。(ちなみに名前の由来から、伊達巻の日でもあるそうです。)
伊達政宗と言えば東北随一の戦国大名で、「独眼竜」の別称もありますね。幼少時に疱瘡で右目を失った彼は、17歳で家督を継ぐと東北各地で戦を行い、勢力を拡大していきました。豊臣秀吉に臣従後は江戸幕府に仕え、3代将軍家光には「伊達の親父殿」と慕われました。

そんな彼は「伊達男」の語源のひとつとなっています。それは彼の行状にあるわけですが、彼がどんなことをやらかしてくれたのか、粋な伊達男ぶりを見ていきたいと思います。

伊達男・政宗ここにあり

「白装束で秀吉に謁見する政宗(みちのく伊達政宗歴史館の蝋人形)」

「白装束で秀吉に謁見する政宗(みちのく伊達政宗歴史館の蝋人形)」

天下人への地位を固めていた豊臣秀吉は、東北で勢力を強める政宗に対し、北条氏の小田原征伐に加わるよう要請します。
ところが政宗はなかなか参上せず、なんと4ヶ月も遅れてしまいました。当然、まずい状況です。
しかし政宗は、まず詰問に来た前田利家に「陣中にいる千利休殿に茶の湯の教えを請いたい」と言ってのけ、秀吉の興味を引きました。

そしてついに秀吉との対面の時。謁見の場に現れた政宗は、白装束を身にまとっていたのです。「私は死ぬ覚悟があります」と表明していたわけですね。そんなことは普通なら有り得ません。ただ、秀吉はそんな政宗を面白がり、遅参を許したのでした。

その翌年、政宗が一揆を扇動したという書状が出てきて、秀吉から召喚されます。
今度こそ大ピンチの政宗は、白装束以外にもうひとつド派手なことをやってのけました。上洛する行列に、黄金の磔柱を担がせたのです。これには京の人々も目が点でした。

そして秀吉に書状の花押が政宗のものであると指摘されると、「私の花押は鳥の目の部分に針で穴を開けているので、これは違います」と堂々と弁明しました。
どう見てもただの言い訳ですが、秀吉は許し、減封のみに処します。どうやら秀吉は政宗の嘘を見抜いていたようですが、彼の派手なパフォーマンスが秀吉好みだったのでしょうね。

猿が飼っている猿を威圧

「鉄扇。骨が鉄でできており、護身用にもなりました」

「鉄扇。骨が鉄でできており、護身用にもなりました」

秀吉は「丹波守」という猿を飼っていました。猿が猿を飼う、という不思議は置いておいて、秀吉はこの猿を登場してくる大名たちにけしかけて、慌てる様子を見ては喜んでいたのだそうです。
政宗はそれを聞き及ぶと、猿の飼育係に頼んでその猿を屋敷に連れてこさせました。そして、猿の前に好物の栗を差し出し、猿が手を出すと鉄扇で叩くのを繰り返し、自分の怖さを猿に叩き込んでから帰したのです。

さて、政宗の登城日。秀吉は猿をけしかけようと待っていましたが、猿は政宗を見るなりおびえて動きません。すると秀吉はすべてを悟り、「政宗め」と苦笑したということでした。

台所にも立つ独眼竜

「伊達政宗。両目がある肖像画を描かせました」

「伊達政宗。両目がある肖像画を描かせました」

江戸幕府の下、天下太平の世になると、政宗はグルメに開眼します。仙台味噌や凍り豆腐、仙台名物すんだ餅を考案したのは政宗だと言われていますね。
自ら台所に立って創作料理を考案していたのでしょうか。型破りでカッコイイ殿様です。

また、トイレには墨と硯が置かれており、毎日献立を考えていたそうです。長くなりそうですね・・・。

政宗の遺品の中には、懐中時計や銀のペンダント、金のロザリオもあったそうです。当時の戦国武将としてはなかなかお洒落というか、新しいモノ好きだったのでしょう。織田信長にも通じるところがありますね。

誰も思いつかない派手なことをやってのけるのが伊達男、見た目も心意気もまさに伊達な色男だったのでしょう。素敵です。

(xiao)

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