大河ドラマ「真田丸」の人気により、2016年大人気の戦国武将・真田幸村こと真田信繁。「真田丸」では、きりや梅といった信繁を取り巻く女性たちにも注目が集まっています。それでは、真田信繁が生涯愛した妻たちがどんな女性なのかご紹介しましょう。
「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉があるように、古今東西、没落した夫を妻が捨てるという話は絶えません。
しかし、真田信繁にとっては当てはまりませんでした。信繁は、4人の妻との間に12人の子を成していますが、その多くが、紀州九度山で生まれているのです。関ヶ原で西軍に組したために、信繁は没落しました。それでも逃げずに妻達は信繁を支えました。
家臣の娘二人と結婚した信繁
信繁の最初の妻は、家臣・堀田作兵衛の妹または娘です。大河ドラマ「真田丸」では、梅という名ですが、実際の名も生没年も不明です。結婚したのは、信繁が信濃や上州にいたころです。この妻との間に生まれた長女を、信繁は気にかけました。長女が嫁いだ信州長窪の庄屋・石合道定に「娘が、心に叶わぬ者であっても、お見捨てなきようにお願い致す」という書状を九度山から送っています。信繁の親心が感じられますね。
また、信繁は家臣・高梨内記の娘も側室にしました。この妻との間には次女をもうけており、三女もこの妻が生んだという説もあります。
堀田作兵衛も高梨内記も、大坂の陣で信繁と生死をともにした忠臣です。2人の妻の没年はわかりませんが、生きていたら父や兄と同様に信繁に従ったと考えるのが自然でしょう。
信繁不遇の時代を支えた正室・竹林院
先の2人は家臣の娘ですが、後の2人は、大名家から迎えています。
信繁の正室は大谷吉継の娘・竹林院です。「真田丸」では春という名で登場します。関ヶ原の折に、吉継は西軍に組します。信繁も、西軍に組した結果、九度山に流されました。竹林院は、信繁に従って九度山に向かい、真田紐を編んで家計を助けます。大名の娘なのに、内職までして稼がねばならないのは辛いはずです。しかし、竹林院は、弱音を吐かず、信繁を支え続けます。この辛い暮らしの中、竹林院との間に、男子が生まれるという幸せもありました。
大坂の陣の前に、竹林院とその子たちは信繁と共に大坂に移りますが、夏の陣直前に信繁は長男・大助だけを残し、竹林院と他の子どもたちを京都に避難させます。それだけではなく、ある人物に子供を託します。その人物こそライバルであった伊達政宗の家臣・片倉重長でした。
敵方・伊達家に守られた信繁の子孫たち
信繁は、伊達家重臣・片倉重長に、次男・大八と娘たちの庇護を頼みます。大坂の陣で家康を追い詰めた信繁は、徳川の天下ではアンタッチャブルな存在になります。信繁という名を幸村と変えることで、語り継がねばならない程でした。
発覚したら大問題になることを承知の上で、重長と政宗は信繁の頼みを快諾し、子供らを匿い続けます。後に大八は、片倉守信と名乗って、片倉家に仕えました。この血統が『仙台真田家』として子孫を残しています。また、三女は重長の後室として迎えられました。
4人目の妻となった豊臣秀次の娘・隆清院もまた、夏の陣の直前まで信繁に従いました。信繁との間にもうけた五女は、出羽亀田藩主・岩城宣隆に嫁ぎ、三男・佐二郎も岩城家に仕えています。
『困った時の友は真の友』という言葉もあります。友ではありませんが、最後まで信繁を支えた妻たちこそ『真の妻』と言えます。九度山での長い不遇時代をともに苦労した妻を持った信繁は、家族に恵まれた幸せ者だったと言えるでしょう。
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参照元:
「真田・九度山ガイド」 http://www.nankaikoya.jp/sanadakudoyama/
「真田の郷・蔵王町HP」 http://www.dokitan.com/sanada/index.html
(黒武者 因幡)
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