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【 島津四兄弟二男 】 彼こそ軍神!鬼島津こと島津義弘

【 島津四兄弟二男 】 彼こそ軍神!鬼島津こと島津義弘

島津四兄弟の中で最も知名度が高いのは、二男の義弘でしょう。彼の武勇は国内外に鳴り響き、「鬼島津」の異名で敵に恐れられていました。
彼の魅力である武勇と優れた人柄、そしてちょっと意外な一面をご紹介したいと思います。

島津義弘の華麗なる戦歴

関ヶ原の戦いの島津義弘陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

関ヶ原の戦いの島津義弘陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

「雄武英略を以て傑出す」と祖父に評された義弘は、兄・義久を補佐し、戦場では総大将を何度も務めました。
「九州の桶狭間」と呼ばれた木崎原の戦いでは、3000の兵相手に300の兵で打ち勝ち、朝鮮出兵では明・朝鮮連合軍20万を7000の兵で破り、「前代未聞の大勝利」と徳川家康に言わせたほどです。島津家の武勇が鳴り響く度に、そこには義弘の姿がありました。

しかし関ヶ原の戦いでは本国から援軍がなく、義弘には少しの手勢しかいませんでした。なりゆきで仕方なく西軍へ参戦したものの、その手勢の少なさから厚遇されず、義弘たちは積極的に動くことはなかったのです。
が、小早川秀秋の寝返りによって退路が断たれ、孤立してしまうことに。そこで義弘が選んだのは、敵中突破で戦場から離脱することでした。
【十中十死・島津の捨て奸】壮絶!奇策!?歴史に残る戦法の数々

甥の豊久や家老らが身代わりとなり、義弘は凄まじい戦いぶりで突破に成功します。薩摩に着いた時、300いた兵はわずか80ほどになっていたそうです。

怒った家康は島津討伐を図ります。義弘は兄・義久の命で蟄居しますが、結果的にこの判断のおかげで命を救われました。
義久は、関ヶ原でのことは本家があずかり知らぬことで、すべて義弘の独断であり、島津家に罪はないと強硬に弁明。義弘を蟄居させることでこれ以上の処罰が及ぶのを防いだのでした。

それ以前に、豊臣秀吉が義弘を厚遇して兄弟の離間を図ったとされていますが、兄弟の絆はもっと強かったのです。

家臣からも慕われた島津義弘の性格

義弘は、家臣に子供が生まれると、その子を抱っこして「子は宝」と祝ったそうです。また、家臣の子供が初お目見えをする時は、ひとりひとりに言葉をかけ、頑張れよと励ましました。

そんな風に家臣を大事にした義弘は、殉死を禁じました。しかし、義弘の死に当たっては13人が殉死しています。それだけ家臣に慕われた主君だったのですね。

また、多くの武将にも信頼され、慕われていました。
関ヶ原での敵中突破の際に怪我を負わされた井伊直政は、負傷の身ながら戦後に島津家の講和交渉に奔走しているのです。義弘が敵味方問わず信頼されていたことがわかります。

茶の湯に学問、和歌に医術!

義弘は茶の湯や和歌を嗜む、風雅の士でもありました。
そんな彼は、なんと医術にも通じていたのです。

戦傷やその合併症の手当てに長けていた義弘は、家臣にも伝授するほどだったそう。また、お抱え医師からも医術を学んだといわれています。

ある時、敵が落とした巨石に当たり心肺停止となった家臣に対しては、さっと蘇生処置を行ったと伝わっています。また、臨月を迎えた家臣の妻に手紙を送り、逆子の対処法や寝方など色々と指導したとか。スゴイ・・・。

家族思いな義弘

「息子・島津忠恒:義久の養子となり、後に家久と改名」

「息子・島津忠恒:義久の養子となり、後に家久と改名」

義弘は、朝鮮から妻に愛の手紙を送ったりするほど大変な愛妻家で、側室は置かなかったようです。関ヶ原から国に帰ろうという時に、摂津住吉にいた妻を置いてはいけぬと救出に向かってから帰国したそうですよ。

また、息子の忠恒に「江戸から帰る時に寄り道をするな、上方武士の真似をしても無駄だから田舎者らしくしておれ、酒宴で酒を飲みすぎるな」などと親らしい手紙を出しています。この世話焼きぶり、家臣の臨月の妻に送った手紙に共通しますよね。
こういうところからも、義弘の人情味が感じられると思います。

戦場で無類の強さを誇った義弘は、人間的にも魅力ある人物でした。
軍神も、家庭ではひとりの父・夫だったわけです。そんな「普通」なところも、義弘の魅力だと思いませんか?

(xiao)

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