【閲覧注意】実はそんなルールが?切腹の種類と作法

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「ハラキリ」として海外でも有名な切腹ですが、武士にのみ許された名誉の死に方でした。庶民や不名誉刑であれば、斬首やはりつけ、絞首刑となったのです。

しかし、ただ腹を切るだけが切腹ではありません。複雑な作法に則って行う、ある意味神聖な儀式だったのです。
そんな切腹の作法について見ていくことにしましょう。

切腹の手順

江戸時代末期の切腹の様子。中央の裃(かみしも)を着用した人が切腹人。
江戸時代末期の切腹の様子。中央の裃(かみしも)を着用した人が切腹人。

平安末期に最初の切腹が行われたとされていますが、時代の流れと共に作法も変化を遂げています。
ここでは江戸時代の一般的な手順についてご紹介します。

(1) 切腹の沙汰が下されると、切腹人は沐浴し身を清めます。水に湯を足して温度を調節する、死者の湯灌と同じやり方をします。

(2) 髪は普段より高く結い、曲げ方を逆にします。白無地の小袖と浅黄色の裃を左前(死者と同じ)で身に付けます。

(3) 切腹の場所では北面して座り、湯漬けなどの膳と酒を最期の食事としていただきます。酒は盃二杯を四度で飲み干します。

(4) 柄を外して紙などで巻かれた短刀が、三方に載せられて切腹者に差し出されます。

(5) 介錯人は切腹人に名乗り一礼、背後に回ると刀を清め、八双(正面より右へ寄せ、切っ先を天に向ける構え)に構えます。

(6) 切腹人は右から肌脱ぎになります。左手で腹を押すように撫でると、手にした短刀を左腹に突き立て、右へ引き回します。ここで介錯人が首の皮一枚を残して斬ります。

(7) 屏風で遺体を隠し、検視役が首を確認して切腹は終了です。

首を切り落とさないのは、身体を分割するのは親不孝であるという儒教思想が影響していると言われていますが、諸説あります。地方によっては切り落としたところもあったようです。

切腹にも種類があります

「明治天皇の死後切腹(追腹)した乃木希典」
「明治天皇の死後切腹(追腹)した乃木希典」

一般的な切腹の方法をご説明しましたが、多少違うものもありました。

【十文字腹】
戦国時代はこちらがポピュラーだったようです。腹を左から右へ切ってから短刀を抜き、みぞおちへ再度突き立てて臍の下まで切り下げ、それでも息があれば喉を突いて絶命したそうです。体力的に無理がありますし、苦痛も大きかったそうです・・・。

【扇子腹】
江戸中期になると、短刀の代わりに扇を三方に置き、それに手をかける瞬間に介錯人が首を切り落としました。切腹人の苦痛軽減のためであったほか、複雑な切腹の作法を知らない武士が当時は増えたためだったそうです。

また、主君の後を追う切腹を「追腹」、責任や義理を通すための切腹を「詰腹」、本意でない無念の切腹を「無念腹」と呼びました。

想像を絶する壮絶な切腹死

織田信長の重臣、柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、死を覚悟しました。
最後の盛大な宴を催すと、彼は妻お市を手にかけてから切腹します。十文字腹で、内臓を掻きだしてから介錯させたと言われています。凄まじい精神状態ですね・・・。

勝家が支持した織田信孝もまた、彼の死後切腹を申し付けられました。腸を引きずり出して投げつけ、秀吉への恨みの句を残した壮絶な最期でした。

また、1868(慶応4)年には堺で仏兵と衝突し死傷者を出した土佐藩士20人が切腹を申し付けられました。
彼らの切腹の様子は、壮絶を通り越して凄惨というべきものでした。腹を切り内臓をはみ出させ、それを掴んで差し出す者や、その状態で仏兵を大喝する者が続出したのです。立ち会った関係者は凍りつき、11人が切腹した所で制止が入りました。

彼らが葬られた寺には、多くの市民が参詣に詰めかけたそうです。

「堺事件で切腹した土佐藩士の墓(妙国寺)」
「堺事件で切腹した土佐藩士の墓(妙国寺)」

いかがでしたか?
それにしても、現代の私たちの想像を絶する死に方ですね。そこまでの精神力が現代に生きる私たちにはあるでしょうか?
武士の切腹には、彼らの最期の誇りが表れていると思います。

(xiao)

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