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【 出生も最期も謎に包まれ… 】大坂城と共に消えた悲運のプリンス・豊臣秀頼

天下人・豊臣秀吉が溺愛した息子が、豊臣秀頼です。「真田丸」では中川大志さんが演じています。爽やかイケメンの素敵な秀頼になることでしょうね。今回は、秀頼がどのような人物であったのか、彼の人生と共に見ていきたいと思います。

豊臣のプリンスが歩んだ短い人生

「6歳で秀吉の遺産すべてを継承した豊臣秀頼」

「6歳で秀吉の遺産すべてを継承した豊臣秀頼」

豊臣秀吉と側室・茶々(淀殿)との間に生まれた秀頼は、幼名を拾と言いました。早くに亡くなった鶴松は同母兄にあたります。秀吉57歳の時の子供であるため、溺愛されて育ちました。そしてわずか6歳で豊臣家を継ぐことになったのです。

秀吉の死後は五大老・五奉行制が取られましたが、徳川家康が目に見えて勢力を拡大していきました。そこで起こったのが関ヶ原の戦いです。秀頼はこの時西軍・東軍のどちらにも組せず、ただ西軍の毛利輝元の庇護下に入っていました。あくまで豊臣家の臣下たちの争いであり、彼らは「秀頼のため」という大義を掲げていたのです。

しかし、戦後の論功行賞を家康がほぼ独断で行ったため、家格は高く朝廷には重要視されてはいたものの、秀頼は65万石の一大名となってしまいました。そして家康は江戸幕府を開き、秀頼を凌駕する力を持ったのです。

この頃、秀頼は家康の孫・千姫を正室に迎えました。後、二条城で家康と秀頼は面会しますが、この時家康は秀頼の堂々とした様子に驚き、恐れたとも言われています。

徳川秀忠と江の娘・千姫

徳川秀忠と江の娘・千姫

慶長19(1614)年、方広寺鐘銘事件を巡って家康は秀頼を糾弾し、大坂冬の陣が勃発します。
秀頼は恩顧の大名に召集をかけますが、家康の勢いがますます盛んな状況で、応じる者はほとんどいませんでした。一方、真田信繁など浪人らが多く呼応しています。
いったん和議は結ばれたものの、家康はそれを無視し大坂城の外堀を埋めてしまいます。これにより、進退窮まった秀頼たちは再び戦うことを決めるのです。これが夏の陣です。

黒田長政が一流の絵師たちに描かせた「大坂夏の陣図屏風」

黒田長政が一流の絵師たちに描かせた「大坂夏の陣図屏風」

しかし戦況は厳しく、頼みの綱の真田信繁も戦死し、大坂城には敵兵がなだれ込みます。天守閣は炎上し、徳川方の包囲から逃げきれないと悟った秀頼は、母・淀殿や側近の大野治長らと共に自刃し、燃え落ちる大坂城の中で散ったのでした。享年23歳でした。そして、天下を統べるはずだった豊臣家はわずか2代で終わりを告げたのです。

身長190㎝の巨体!?秀頼ってどんな人だった?

「玉造稲荷神社(大阪市)にある秀頼の銅像」

「玉造稲荷神社(大阪市)にある秀頼の銅像」

「明良洪範」には、秀頼の身長が6尺5寸(約193㎝)、体重43貫(161㎏)だったと記されています。当時の平均身長は160㎝にも満たなかったので、すさまじいまでの巨漢だったということです。これなら、家康もビビッてしまうかもしれません。「世に無き御太り」とも伝わっているそうですが・・・。

千姫とは政略結婚でしたが、仲は良かったようです。彼女との間に子はありませんでしたが、側室との間に男の子と女の子が生まれました。男の子は処刑されてしまいましたが、女の子は千姫に助けられ、天秀尼として生涯を全うしています。

母・淀殿には逆らえない!?

女性としてはかなり大柄だったと噂の茶々こと淀殿。

「秀頼の母・茶々こと淀殿。女性としてはかなり大柄だったとの噂」

夏の陣で戦況が悪化すると、秀頼は大野治長らの求めに応じ出陣しようとしました。が、淀殿にこれを止められてしまいます。冬の陣での講和も淀殿が主張したからとも言われていますし、彼は母を重んじる余り母に振り回されてしまったのかもしれません。そこが幼い頃からプリンスとして育てられた彼の弱さだったのかもしれませんね。
結局、豊臣秀頼は一度も戦場に立つことはなかったのです。

最近オランダで発見された新文書では、大坂の陣において秀頼が裏切り者を大坂城から突き落としたという記述があったそうですね。
そのときに母を押し切って秀頼自らが出陣していたら・・・と考えずにはいられません。

大坂城発掘調査では顎に介錯の傷がある20代男性の骨が見つかり、もしかするとこれが秀頼の骨ではないかと言われています。また、真田信繁と薩摩へ落ち延びたという生存説もあるなど、その最期には謎がつきまとっているのです。

(xiao)

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