松尾芭蕉といえば、日本史上最も有名な俳諧師です。三重県伊賀市の出身だった芭蕉は、46歳の時に歌枕や名所旧跡を回るという目的で旅に出ます。その移動距離は約600里(約2400km)!計算すると1日数十kmは歩いている計算になります。その行脚を記したものが、代表作である「おくのほそ道」なのです。
松尾芭蕉忍者説!?
しかし、46歳で1日数十kmを移動できるのは普通ではないということと、芭蕉の出身が忍者の里として有名な伊賀であることなどから、芭蕉が実は「忍者」だったのではないかという説があります。
当時は今のように自由に移動することが出来なかった為、それぞれの藩が発行する通行手形というものが必要でした。(現在の外国に行くためのパスポートのようなイメージです。)
通行手形を取得するのは現在では考えられないくらい大変で、発行までにもかなりの時間を要していました。
そんな通行手形を手に入れられるのは、よほどの功績を残した人物だけ。ひとりの俳諧師がただ旧名所を巡る為だけに簡単に発行したとは考えられません。松尾芭蕉が本当にただの俳諧師であれば手に入れられたのか不思議でなりませんよね?
「おくのほそ道」は密偵活動の旅だった?
実は「おくのほそ道」の旅は、幕府から正式に認められた密偵としての旅だったのではないかという説があります。
当時水戸藩は、伊達政宗のいる仙台藩が不穏な動きをしていると感じていました。そこで仙台藩の動向を探るべく、芭蕉を密偵として仙台に向かわせたのではないかというのです。
それが本当であれば、通行手形や旅費の工面にも納得できますね。
不思議な旅のルート
また、旅のルートにも不思議な点がみられます。
「芭蕉の里」としても有名な黒羽では十日以上滞在し、仙台藩に入った芭蕉と弟子の曾良。ですが、出発の際に「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛した松島はたった1日で通過してしまったそうです。あの有名な「松島や ああ松島や 松島や」という句は芭蕉の句ではなく、「いづれの人か筆をふるひ詞(ことば)を尽くさむ」と句は残さなかったとされています。
その一方で、『曾良旅日記』には仙台藩の軍事要塞といわれた瑞巌寺や港などを細かく見物していたことが記されています。
そのことからも、仙台藩の内部を調査するための旅だったという見方が強まり、より隠密=忍者説が濃厚になったようです。
芭蕉だけでなく、弟子の曾良のほうが幕府の任務を課せられ、カモフラージュとして芭蕉の旅に同行したという説もあります。
松尾芭蕉の「おくのほそ道」に関しては今現在でも様々な謎や都市伝説がまことしやかにささやかれています。
今回紹介した忍者説の真偽は分かりませんが、いつか本当の「おくのほそ道」の目的がわかる日が来るかもしれませんね。
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