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【 真田丸の戦いを予習!】大坂城の南側は弱くなかった?「攻める出城」として築かれた、真田幸村の集大成

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関ヶ原の戦いから14年後の慶長19年(1614)11月19日、「大坂冬の陣」が開戦。10日間ほど城外での戦闘が行われた後、12月に入ると本格的な籠城戦が始まりました。徳川軍は東西南北の四方から包囲にかかり、城からの銃撃に備えて塹壕を掘ったり、盾を設置したりして万全な形で布陣を終えます。

籠城後も大坂城周辺では各方面で戦闘が起きましたが、両軍が特に激しくぶつかり合ったのは、上図のように城の南側。特に徳川軍は前田利常・井伊直孝・松平忠直・藤堂高虎・伊達政宗など名だたる大名たちが陣を構えました。大御所・家康将軍の秀忠が本陣を置いたのも南側です。

ちなみによく言われる「南側が弱点だった」というのは、あくまで「他の城に比べれば」の話。大坂城の南側は、海や川がない代わりに起伏に富んだ台地があり、大きな空堀も掘られていて十分に攻めにくい場所でした。だからこそ徳川が主力軍を置いたとも解釈できます。本当の弱点は・・・後述します。

真田丸は、東京ドーム全体とほぼ同じサイズの出城

真田丸跡地の一角に建つとされる三光神社(大阪市天王寺区)

真田丸跡地の一角に建つとされる三光神社(大阪市天王寺区)

一方の豊臣軍も長宗我部盛親大野治長木村重成などが守りを固め、さらに城外には真田幸村(信繁)が、出城(でじろ)を構築して待ち構えていました。これが「真田丸」です。真田丸は長辺が200メートルを超える(諸説あり)壮大な規模を誇ったといわれています。東京ドーム(全体)の直径が約244メートルですから、大体それに匹敵する大きさです。

敢えて巨大にすることで徳川軍の目を引き、大勢の敵をおびき寄せるのが狙いでした。つまり大坂城の弱点を守るというより、大坂城周辺の地形をより有効に生かし、拠点をもうひとつ造る。そして大坂城と連携して敵を一網打尽にしようとした「攻撃型の出城」だったのです。

幸村が采配をとる「真田丸」では、秀頼から預けられた豊臣の旗本衆も含めた牢人衆など、一説に総勢5~6千人が守りを固めました。そして真田丸の正面に陣取った徳川軍と睨み合います。幸村は敵を引き付けるため、当初は両軍の間に位置する篠山(ささやま)に前衛部隊を布陣させます。まず、ここから前田勢に対し、盛んに鉄砲を撃ちかけるよう命じました。

あまりの被害の大きさに家康と秀忠が大激怒!

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12月4日の夜明け前、山上から絶え間なく銃撃を浴びせられた前田勢の先鋭部隊は「よくも!」とばかり、篠山を奪い取るために前進。夜明けとともに奇襲をかけました。すると篠山は「もぬけの殻」。真田勢はすでに撤退しており、前田勢は難なく篠山の占拠に成功します。喜ぶ前田勢に対し、夜明けとともに真田丸から盛んに罵声が浴びせかけられました。真田丸へ撤退を終えた幸村による下知です。

怒った前田勢、篠山からさらに前進して真田丸へと攻めかけました。すると、「前田に後れをとるな!」とばかりに井伊・松平・藤堂らの諸隊も真田丸めがけて進軍し、その前に置かれた柵を越え、逆茂木を取り除きにかかります。

十分に敵が接近し、好機と見た真田幸村、居並ぶ砲手に対し、「撃て」と銃撃を命じます。真田丸のみならず、大坂城を守備する長宗我部勢や木村勢などの諸隊からも銃撃が浴びせかけられました。

「諸勢、盾や竹束の用意もなく攻めかかり候、死傷手負いなど甚だ多く」(『大坂御陣覚書』)。

「その様子を見たまい、両将軍(家康と秀忠)、逆鱗甚だし(大いに腹を立てた)」(『当代記』)

真田丸跡地一角に建つとされる心眼寺(大阪市天王寺区)。境内に幸村墓碑もある

真田丸跡地一角に建つとされる心眼寺(大阪市天王寺区)。境内に幸村墓碑もある

・・・などなど、江戸時代の史書や軍記物は豊臣軍が徳川軍に大打撃を与えた様子を伝えます。伝聞や先行資料をもとにした記録ですが、大体このような展開であったと思われます。前からは銃撃を浴び、後ろから次々と押し寄せる味方の兵が邪魔になって進むことも引くこともできず、徳川軍は多くの死傷者を出した挙句、撤退しました。その死傷者は数千とも1万を超えたともいわれています。

現在の大阪城天守閣

現在の大阪城天守閣

この戦いに懲りた徳川軍は以後、やみくもに突撃することを厳に戒めます。城の包囲は続けたまま、天守(天守閣)に最も接近できる城の北側から大砲による砲撃を盛んに仕掛ける方針に切り替えました。すなわち、真田丸とは反対側にあたる北側から、巨大な天守を連日狙い撃ったのです。天守は巨大であるがゆえに砲撃目標としては最適で、いわば一番の「弱点」でした。

たとえ砲弾が天守を外れても、その周りに本丸御殿などの主要な屋敷があり、近くに着弾するだけで城内にいる人々には十分な心理的ダメージになります。これが功を奏し、「冬の陣」は徳川軍有利の形で両軍和睦が結ばれて終結。数ヵ月の停戦の後、戦いは翌年5月の「夏の陣」へと続いていくのです。

幻の出城、真田丸の実態

真田丸の名残か。大阪の天王寺区に現在も残る「真田山公園」

真田丸の名残か。大阪の天王寺区に現在も残る「真田山公園」

その和睦の条件として大坂城の二の丸・三の丸が破却され、真田丸も壊されてしまいました。幸村の奮戦もむなしく、真田丸は冬の陣開戦から和睦までのわずか2~3ヵ月でこの世から姿を消してしまった「幻の出城」なのです。そのため痕跡が皆無に等しく、規模や構造について詳しいことは分かりません。

丸馬出の形で描かれた真田丸(大坂城仕寄之図/国立国会図書館蔵)

丸馬出の形で描かれた真田丸(大坂城仕寄之図/国立国会図書館蔵)

従来は「真田丸」という呼称から、城郭の一部から突き出した「丸馬出」(まるうまだし)の形状であったと推測され、江戸時代に作られた大坂の陣の絵図面にもそう描かれることが多かったようです。しかし、冒頭にも記したように最近では大坂城からほぼ独立した「出城」だったとする説が、何人かの識者によって提唱されています。

松江歴史館が所蔵する「極秘諸国城図」や、広島市立中央図書館所蔵の「諸国古城之図」などは、江戸時代初期の真田丸跡地の地形図を忠実に描いたものとされています。近年はそれらの研究が進められ、現地の地形とも照らし合わされ、従来の「出丸」説が否定されつつあります。内部構造も「大坂冬の陣図屏風(東京国立博物館)」に描かれた真田丸を元に詳しく分析され、当時の姿が少しずつ浮かび上がってきました。

ジオラマで再現された真田丸

真田丸ジオラマ(写真提供/大阪市天王寺区役所)

真田丸ジオラマ(写真提供/大阪市天王寺区役所)

そうした研究成果から、2015年に再現されたジオラマがこちら。千田嘉博氏(城郭考古学者)の監修のもと、クリエイターの関本徹生氏(元・京都造形芸術大学教授)によって制作されたものです。

一部に水が入った深い空堀、複数の曲輪、鉄砲の撃ち手が内部を自在に走れる二重構造の回廊など、新説を取り入れた真田丸の姿が復元されています。大阪市天王寺区が制作したもので、主に天王寺区役所1階区民ギャラリーに展示されています。ご興味があれば、ぜひ実物を見に行かれてみてはいかがでしょうか。

真田丸ジオラマ(写真提供/大阪市天王寺区役所)

真田丸ジオラマ(写真提供/大阪市天王寺区役所)

真田丸の「丸」とは「本丸」や「二の丸」でも使われるように城の区画を表す言葉。「咸臨丸」「いろは丸」といった船名や、男の子の名前(弁丸、梵天丸など)にも使われるように「大事なもの」を意味する言葉でもあるようです。実在した期間はわずかですが、消滅してから400年を経た今でも語り継がれる真田丸。真田幸村こと信繁の集大成にして代名詞といえるでしょう。

<おまけ>

大坂冬の陣 両軍年齢比較

大坂冬の陣 両軍年齢比較

最後に前回の関ヶ原編同様、「おまけ」として大坂冬の陣に参戦した両軍の人物の年齢比較表を掲載しておきましょう。最高齢は徳川軍が参謀・本多正信、豊臣軍が氏家行広(氏家卜全の子)。最年少は豊臣軍が幸村の息子・真田大助、徳川軍は福井藩主の松平忠直でした。本多忠勝の子・忠朝、井伊直政の子・直孝などは軒並み年若く、世代交代も進んでいて戦国の世も過去になりつつあったことが分かるのではないでしょうか。

【文/上永哲矢(哲舟)】

※ジオラマ写真提供:大阪市天王寺区役所

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