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【 歴史を振り返れば奴がいた!】戦国時代に活躍した僧侶たち

戦国時代において、主役はもちろん戦国大名たちですが、それを補佐する軍師や参謀的な役割の人物も魅力的で、時に主君以上に活躍することもありました。

その中には、大河ドラマ『おんな城主 直虎』の南渓和尚のような、僧侶もいたのです。
僧でありながら、権謀術数に思いを巡らす・・・ちょっとダークな一面を持ちながら、戦国時代を陰で支え、時には操った僧侶たちをご紹介します。

「真田丸」で注目!板部岡江雪斎

大河ドラマ「真田丸」で注目された、北条氏の軍師・板部岡江雪斎(いたべおか こうせつさい・1537〜1609)。
北条3代に仕えた彼は、元々は田中氏でしたが、板部岡氏を継ぎました。北条氏で祐筆(文章の代筆や書類作成)を務め、秘書や外交僧としての役割も果たしています。また、国の運営に関わる評定衆や寺社奉行としても活躍、北条氏康が病に伏せた時、鶴岡八幡宮にて病治癒の祈祷を行っています。

江雪斎が祈祷した北条氏康
(小田原城天守閣蔵)

北条と武田の同盟が破れた際には、当時勢い盛んな織田信長との同盟を取りつけました。また、北条と徳川が信濃を巡って対立した際には和睦交渉を行い、姻戚関係を結ぶことに成功しています。

そして、豊臣秀吉から北条氏の上洛要請を受けた際にはその交渉の窓口となりました。しかし北条側でその話が破談となり、結果として秀吉の小田原攻めへと至ってしまうのです。
後に捕らわれた江雪斎ですが、その責任を秀吉に問われても申し開きをすることはしませんでした。その潔い態度が気に入られ、秀吉の御伽衆として迎えられます。この時に姓を岡野に改めました。

秀吉の死後は、息子が徳川家康に仕えていた関係で家康に接近し、関ヶ原の戦いにおける小早川秀秋の裏切りの説得に当たったとも言われています。慶長14年(1609)まで生き、子孫は旗本として残りました。

『北条五代記』には「宏才弁舌人に優れ、その上仁義の道ありて、文武に達せし人」と記されるほど、人格者だった江雪斎、詩歌や茶道にも造詣が深かったようです。豊臣秀吉と仲違いしたために北条氏へ身を寄せていた茶人の山上宗二と親交を持ち、後に自著の秘伝『山上宗二記』を贈られています。また愛刀の「江雪左文字」は、後に国宝になっています。

黒衣の宰相ここにあり!太原雪斎

今川義元の最強の参謀・太原雪斎(たいげん せっさい・1496〜1555)は、義元が幼い頃から教育係として仕えていました。
義元の父や兄が相次いで死去し、家督争いが起こると、義元が家督を継ぐために尽力し、勝利のあかつきには今川の最高顧問的な立場として、政治と軍事両面で大きな発言権を持つようになりました。僧籍にあったことから、「黒衣の宰相」という異名で呼ばれたそうです。

太原雪斎の主君・今川義元
「太平記英勇伝三:今川治部大輔義元」

雪斎は、まず武田との同盟を取りつけた後、北条を加えて甲相駿三国同盟まで発展させています。
また、西三河の松平氏から人質としてやってくるはずだった竹千代(後の徳川家康)が織田側に奪われてしまっていたところ、信長の兄・信広を捕虜として竹千代との交換を交渉し、取り戻して西三河を今川の支配下に置くことにも成功しました。

僧としても、臨済宗の寺を開いて布教に努め、『今川仮名目録』の追加にも関わるなど、今川の最盛期を支えた最重要人物でありました。そのため、「雪斎が生きていれば桶狭間の負けはなかっただろう」とまで言われるほどで、『甲陽軍鑑』では雪斎の死後、山本勘助が「今川家の事、悉皆坊主(雪斎)なくてはならぬ家」と評したと書かれています。

太原雪斎が開いた静岡・臨済寺
(写真提供:静岡県観光協会)

戦もできる外交僧・安国寺恵瓊

「教導立志基三十三:羽柴秀吉」
東京都立図書館蔵(月岡芳年)
『太閤記』の一場面で、毛利の使者として秀吉に対面し、信長死去に落涙する秀吉に驚く安国寺恵瓊を描いたもの。

毛利氏に仕えた外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじ えけい・1539?〜1600)は、なんと当時最強の織田信長が倒れることを予想していたといいます。

信長と秀吉による中国攻めの最中に本能寺の変が起きたわけですが、秀吉と毛利側の和睦交渉の席には彼がついていました。というのも、彼は信長亡き後、秀吉が頭角を現すと踏んでいたからです。
やがて秀吉の側近にもなり、九州征伐、小田原の陣、朝鮮出兵にも参加しました。この時には兵を率いており、武将としての一面も持っていました。

関ヶ原の戦いでは石田三成の西軍に参加し、毛利輝元を説得して総大将に担ぐことに成功しますが、結局戦闘に参加することはありませんでした。敗戦後、三成と共に斬首に処せられています。

恵瓊の画策で、西軍の総大将となった毛利輝元。終戦後、恵瓊のみ処刑される。
(毛利博物館蔵)

外交僧として豊臣政権の中枢で活躍していた恵瓊は、諸大名から多くの寄進を受けていました。実際の知行高以上に経済的に恵まれていたたため、関ヶ原合戦においても多くの兵を有し、軍装も他の大名よりも優れていたそうです。
現代でも外国車を乗り回しているお坊さんもいますし、当時の僧侶も案外リッチだったのかもしれません。

特に、外交面で力を発揮し、変わりやすい時代の流れを読んで交渉の席についた彼らの頭脳は、私たちの想像をはるかに超えた明晰ぶりが際立ちます。彼らこそ、戦国時代の影の立役者といえるのではないでしょうか。

(xiao)

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