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【最初は薬だった!?】病弱だった熊本藩主・細川忠利のために作られた辛子蓮根

熊本藩主 細川忠利と辛子蓮根

肥後五十四万石、熊本の郷土料理として有名な辛子蓮根。
一昨年の暮れ熊本に行ったのですが、空港のおみやげ屋さんでは明太子と辛子蓮根のオンパレードで、人気の高さを実感しました。

居酒屋などで一度は食べたことのある方も多いと思いますが、昔は熊本藩主の細川家でしか食べられない門外不出の料理だったことをご存知でしょうか?

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細川忠利(ただとし)wikipediaより。

 

織田・豊臣・徳川と三時代に渡って活躍した細川忠興と、早世した妻・玉子(洗礼名・ガラシャ)の三男である細川忠利は、生まれながらに病弱で、それを案じた母・玉子が夫に内緒で、幼少期の忠利にキリスト教の洗礼を受けさせたとも言われています。

忠利は、幼い頃から体が弱かったものの、父・忠興は、三人の息子の中で、忠利を高く評価して、最も期待をかけていたようで、忠興は、意に沿わぬ長男・忠隆を廃嫡(勘当)させ、大坂の陣で豊臣方に就いた次男・興秋は家康の赦しがあるにもかかわらず自害させるという厳しい処分を下して、三男の忠利を後継ぎとしました。まさに戦国時代を象徴するような逸話です。

さてその忠利ですが、兄たちを差し置いて後継ぎとなることを気にしていたことを記す文献が残っているように、弱気な一面もあるものの、体が弱いといっても武芸には秀でていて、柳生新陰流の使い手でもあり、晩年の宮本武蔵を藩に招聘したりもしたと言います。

そして、忠利は、父親の期待どおり、小倉藩主に続き熊本藩主も努めて、名君として名を馳せ、今日まで細川家の家名は続くこととなりました。(末裔は、元内閣総理大臣の細川護煕氏)

その細川忠利ですが、小倉藩主(下記関連記事を参照)を務めていたときに、領内の禅僧から、造血作用の強い蓮根が体質改善に効果があると勧められたのだそうです。そして、そのことを聞いた熊本藩の平五郎(へいごろう=名字は無い)という賄方(まかないかた=料理人)が主君の健康を案じて、忠利の前の熊本藩主である加藤清正が非常食として熊本城で栽培させていた蓮根を使った料理を色々と考え、コンペを実施したのだそうです。

関連記事:
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そうして、平五郎は試行錯誤の末に、茹でた蓮根の穴に、麦味噌に発汗作用や食欲増進作用がある辛子を混ぜた物を詰めて、麦粉と空豆粉と卵黄を混ぜた衣をつけて油で揚げるという料理を考え出しました。
これが、現在まで熊本名物として広く愛されている辛子蓮根なのです。

なんと!今でも平五郎の子孫が辛子蓮根を作り続けているって!?

平五郎の努力の甲斐あって、細川忠利は辛子蓮根をとても気に入り、健康になっていったと言われています。忠利は、父の忠興が当時としては異例の長寿(83歳没)だったので、父親より先に病死してしまいますが、それでも55歳まで生きたそうですから、当時の平均寿命は全うしたと言えるでしょう。

そして、平五郎は、忠利から褒美として、脇差一振りと小判10枚を与えられ、「森」という名字帯刀を許されました。
しかも平五郎のご子孫は、現在は一八代目まで引き継がれて、辛子蓮根製造業を続けられているそうです。

関連:森からし蓮根 http://www.karashirenkon.co.jp/top.shtml

そんな辛子蓮根ですが、当時は、油が貴重だったからでしょうが、天ぷらなどの揚げ物は、殿様や大名など身分の高い人しか食べることはできなかったそうです。

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確かに蓮根に似てるな・・・

また、辛子蓮根の断面が、織田信長から定紋された細川家の家紋「九曜」と似ていたために、細川家の門外不出の料理とされ、明治維新後まで、決して庶民の口に入ることはなかったそうです。

この辛子蓮根が今日のように広く親しまれるようになったのは、戦後になってから。
今では、居酒屋のメニューやスーパーの総菜コーナーでよく見かける辛子蓮根ですが、そのルーツを聞くと、あらためて食べてみたくなってきますよね。

副編集長Y

参照元:
細川忠利」wikipedia
森からし蓮根」オフィシャルサイト

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