公方様や篤姫が眠る「聖地」、上野寛永寺の徳川将軍家墓所【哲舟の歴史よもやま取材ルポ その10】

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この連載の第8回で、「増上寺の徳川将軍家の墓」を紹介したが、今回は東京都内にある、もうひとつの徳川将軍家の墓「寛永寺墓所」のことを書きたいと思う。

増上寺と寛永寺は、どちらも「徳川家の菩提寺」として江戸時代に隆盛を誇った。増上寺が「室町時代に開かれた寺」であるのに対し、寛永寺は3代将軍「家光の時代に徳川幕府が創建した寺」という違いがある。

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これが寛永寺の本堂(根本中堂)。動物園や国立美術館で有名な上野公園の北端にあり、今は訪れる人も少なくなっているが、かつて寛永寺の敷地は、今の上野公園全体の2倍もあったという。その様子を記したのが、1枚目の浮世絵「上野東叡山全図」だ。今の本堂は江戸時代の建物ではなく、明治12年(1879年)、川越喜多院の本地堂を移築したものだが、趣は抜群といえる。

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徳川慶喜(よしのぶ)が、戊辰戦争の時に謹慎していた大慈院(葵の間)は、本堂の隣に残っている。内部には慶喜が起居していた和室2間と厠、そして庭や一部の遺品が、当時の姿のまま残る(実際は少し場所が動いているので移築)。みずから大政奉還を行い、幕府を終息させた慶喜は、何を想ってここで暮らしていたのか。

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さて、寛永寺にある徳川家の墓所は2ヵ所あり、うち1ヵ所が5代・綱吉、8代・吉宗、13代・家定が眠る北側の区域。もう1ヵ所が4代・家綱、10代・家治、11代・家斉が眠る南側の区域となっている。現在、見られるのは北側の綱吉・吉宗・家定のほう。後者は一般の墓所の奥深くにある関係上、非公開になっている。

増上寺の墓所は一日中開放されていて、自由に参拝することができるが、寛永寺は決まった日だけ、それも事前に申し込みが必要で、お坊さんの案内付きという厳重なものとなっている。

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北側の墓所入口。この勅額門(ちょくがくもん)の奥に、「犬公方」と呼ばれた5代将軍・綱吉(つなよし)、「暴れん坊将軍」の異名で有名な8代将軍・吉宗(よしむね)、幕末の将軍として名高い13代・家定の墓所があるのだ。

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この日の参拝者は定員いっぱいの80名。門の脇で案内のお坊さんが来るのを待っている。お坊さんの案内で、いざ墓所の中へ入って参拝。しかし、残念ながら一般のツアーではこの奥にある墓所の撮影は許可されていない。よって今回は写真による案内はここまでとしておき、いずれ許可を得て取材をしてきたいと思う。

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代わりに、勅額門の脇に、篤姫(天璋院)の墓を映した写真を載せておく。基本的には増上寺と同様の宝塔が建ち並ぶ形だ。この篤姫の墓は、夫である13代・家定の墓の隣に寄り添うように建つ。

明治16年に49歳で亡くなった篤姫は、江戸無血開場や徳川家の存続などの功績から、当時の人が敢えてここに埋葬した志が伝わってくる。墓の周囲には彼女が好物だったという枇杷(ビワ)が植えられていて、埋葬者の粋なはからいに感動するばかりだ。

緑が鬱蒼と茂るなか、増上寺と同じ形の宝塔が立っていて、誠に神妙な気持ちになる。今でこそ、門以外の建物はみんな1945年の戦災で焼失しているが、江戸時代には、墓所の前には立派な拝殿があり、その拝殿から奥に進むことは、現役の将軍でさえ許されなかったという。我々が墓のすぐ側まで行ってお参りできるのは実にありがたいことといえよう。

宝塔の地下2mのところに、各将軍の遺体は棺に納められて眠る。増上寺の墓所は東京大空襲で焼けたため、昭和33年(1958)に遺骨の発掘調査が行われ、一ヵ所にまとめられたが、こちら寛永寺の廟所は基本的に江戸時代の形のまま「聖地」として残されており、一度も発掘調査は行われていない。将軍たちは亡くなってからそのまま、座した姿で今も眠り続けている。

本堂裏の一角にまとめられた増上寺の墓は、どこか手狭な感じがするが、寛永寺の墓は、いまだひとつひとつが独立して建っており、本当に当時の姿のままというのが分かる。写真撮影の禁止や人数制限がされているのも納得がいく。

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南側の墓所の様子も、紹介できる範囲で紹介しておこう。北の墓所を出て、鶯谷駅の方へ向かうと、もうひとつの赤い門が見えてくる。これが、4代将軍・家綱の霊廟入口にあたる勅額門。

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一般の方々の墓が立ち並ぶ、墓地の奥へ進んでいくと、やがて、大きな灯籠群が立ちはだかる。その反対側には、高くそびえる石垣が。ひと目で、この奥が尋常ならざる方々の眠る場所だと意識させられる。

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石垣の前に水盤舎があった。本来なら、ここで手を清めるところだが、もちろん水は入っていない。これも家綱が没した当時に建てられたもので、重要文化財となっている。

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この奥が、まさに将軍家の墓所なので、ずいっと進んで行きたいところだが、柵があって入れない。この奥に4代・家綱、10代・家治、11代・家斉の3将軍が眠っているのだ。柵越しに覗く苔むした石畳が、江戸以来の歳月を感じさせる。

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墓所を守るように囲む石垣は、元幕臣の勝海舟が建てたもの。明治時代になってから将軍家の墓を守るため、海舟が私財を投じたという。石垣で、墓所の中から眺めるとまた特別な感慨があった。

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2015年から徳川家墓所の全日公開が始まった増上寺に比べ、寛永寺の徳川家墓所を見学できる機会は非常に限られている。募集が始まってもすぐ定員に達してしまうことが多いが、興味がある方は諦めずにチャンスを窺ってみよう。間違いなくそれだけの価値はある。

(寛永寺 特別参拝)
http://www.kaneiji.jp/worship/

ちなみに初代の家康と、3代の家光は日光東照宮にあり、15代・慶喜の墓はこの近くの谷中霊園にある。いずれまた、それらも紹介したいと思う。

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