今日5月27日は「百人一首の日」。
現在確認できる最古の百人一首に関する記録が『明月記』の文暦2(1235)年5月27日項であることから、この日に定められました。
百人一首とは元々文字通り、一人一首ずつ百人分の歌を集めたもの。実は様々な種類の百人一首があるのですが、一般的に百人一首と言うと藤原定家が選定したとされる「小倉百人一首」をさします。
小倉百人一首は、飛鳥時代から鎌倉時代初期までの秀歌撰。和歌を学ぶ入口として人気で、学校で覚えさせられた人も多いのではないでしょうか。
とはいえ、あの頃はテスト対策として覚えるのに精一杯。もうほとんど覚えてない、覚えてるけど鑑賞まではしていない、という人も少なくないでしょう。
そこで今日は百人一首の日を記念して、改めて百人一首の歌の魅力に迫ってみます。見逃しがちだけど、じっくり向き合うと意外に深い和歌の数々、今回は男性歌人による歌を2首ご紹介します。
※女性編はこちら!
35年ぶりの故郷を思う。阿倍仲麻呂の7番歌
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
「大空を振り仰いで見ると、(平城京のある)春日の三笠山に昇ったのと同じ月なんだなあ」という意味。
実は唐で詠まれた歌です。
作者の阿倍仲麻呂は有名ですが、百人一首などでは安倍仲麿と書かれます。
安倍仲麿は16歳で留学生として唐に渡り、35年後に帰国することになってこの歌を詠みました。
今のようにリアルタイムで通信する手段はなく、しかも海を越えることは命がけの旅でした。
35年間、故郷の日本はあまりに遠かったことでしょう。その日本に帰ることになって、唐の地で見上げた空の月に日本を思う。
そんな背景を踏まえた上で改めて歌を見ると、なんとも郷愁の念が漂ってきますね。
ちなみに安倍仲麿、この後船で日本を目指しますが暴風雨に遭って遭難し、結局唐に戻ってそのまま亡くなりました・・・。
やっぱり彼は熱かった。崇徳院の77番歌
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」
「流れが速く岩にぶつかって割れる滝川の筋のように別れることになっても、最後には結ばれてみせようと思うよ」・・・というところでしょうか。
わりとわかりやすく情熱的な恋歌ですが、これもちょっと掘り下げてみましょう。
作者は崇徳院。
12世紀の院政時代における上皇でしたが、父・鳥羽法皇の意向により政治の実権は握れず、また天皇も鳥羽法皇気に入りの親王から選ばれてしまいます。
あまりの不遇に耐えかねた崇徳院は鳥羽法皇の崩御後、兵を起こします。後に言う、保元の乱です。
崇徳院は敗北し、讃岐へ流罪に。都を恋い何度も帰京の許しを求めますが受け入れられず、失意のまま亡くなります。
が、その後京では変事が続き、崇徳院のたたりと噂されて、追号をおくられ崇徳院の霊を祀った崇徳院廟(のちの粟田宮)が建てられています。
そんな歴史的背景を踏まえた上でこの歌を見返してみると・・・なるほど激情家で行動あるのみ、な崇徳院の心の一端が垣間見えるようです。
以上、小倉百人一首に収録された歌のうち、男性歌人による歌2首を紹介しました。
和歌は歴史的にも重要な役割を果たした人によるものが多く残されています。
そうした歌を通して人物の内面に触れ、改めて歴史を見てみると意外な発見があるかもしれません。
また、女性歌人編の記事もあります。そちらもあわせてご覧頂ければ幸いです。
※女性編:ウザ男への切り返しがお見事!百人一首の歌・女性編
(Sati)
参照元:小倉百人一首殿堂「時雨殿」HP https://www.shigureden.or.jp/
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