庭先にぶら下げられているのは調髪に使う笄(こうがい)でした。
この小さな的を視野に二人の武将が弓と銃を手に立っていました。
一人は立花宗茂。もう一人が黒田長政。
そして傍らには仲裁役の宇喜多秀家。
場所は日本ではなく、朝鮮半島の碧蹄館でした。明と朝鮮の連合軍と激闘の末に勝利した場所です。
戦勝を祝って宇喜多の陣で宴が催されたのですが、その席で鉄砲と弓のどちらが戦の役にたつか、という話になりました。
日頃から鉄砲重視の黒田長政は、鉄砲が優れていると主張します。
弓矢は風でたやすくそれ、的にあてるのも難しく、さらにこれからの戦ではもう弓は必要とないとまで述べたのです。
ここで九州大名の立花宗茂が異議を唱えます。
宗茂は一方が優位ということは言えず、その状況により利点は変わるとしました。例えば鉄砲も雨が降ったら使えなくなるなどと言います。
そうして二人とも譲らなかったため、では実際に勝負してみたらいいじゃないか、となったのです。
天下に知られる二大名がそこまでやる必要ない気もしますが、そこは戦国時代でした。
宗茂は愛用の弓を、長政は銃を持ち出し、勝者が相手の得物をもらう手はずになります。
こうして余興としては真剣すぎる勝負がはじまったのです。
弓の名手・立花宗茂
【弱冠二十歳、立花宗茂の機略】島津4万の大軍を手玉に取った伝説の若武者
まず弓を携えた宗茂が前に出ます。
宗茂は日置流弓術の免許皆伝、初陣で敵の秋月方の有力武将の腕を射抜き、浅野長政を饗応に数十メートルも離れた鴨を射落とした逸話があるほどの腕前。
酔も見せず一撃で命中させ、喝采を受けます。
さすが、今回の戦でも先陣で手柄を立てただけはありました。
黒田長政の挑戦
次に長政が愛用の鉄砲「墨縄」を構えます。
関ヶ原でも黒田鉄砲隊は、島左近を戦闘不能に追い込んだレベルです。長政もなかなかの腕だったと伝わります。
しかし長政の放った一撃ははずれ、笄を揺らすことはできませんでした。
「当たらない」と貶した当人が弓矢に遅れをとったのです。長政も武人、宗茂の主張を正しいと認め、宗茂に「墨縄」を譲ります。
すると勝者である宗茂も愛用の「立左」の弓を長政に渡し、お互いの面目が立ったと言います。
ちなみに戦国末まで弓隊は存続し、幕末の長英戦争でさえ英国外交官サトウが「矢でやられた英国兵の死体があった」と書き残してるほどです。
当時の銃の性能を考えると、宗茂の発言はそう間違いでもないでしょう。
念のため言っておくと、宗茂も鉄砲を否定する保守派ではなく、むしろ先進的なところがありました。
関ヶ原の大津城攻めでは塹壕から射撃させ、立花家伝来の「早込め(カートリッジ式に一射撃分火薬をまとめた物の束)」を使い、装填時間を短縮するなど現代戦のような工夫を先取りしていたほどです。
一人の優れた武人として冷静に武器を論評し、それを表した逸話といえるのではないでしょうか。
参照元
立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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