大和国(現在の奈良県)の戦国武将・筒井順慶(つついじゅんけい)は、「元の木阿弥」という言葉の語源になった人物です。なにげなく使用することがあるこの言葉には、気を抜くことができない戦国時代ならではの事情が隠されています。歴史上には波乱万丈な人生を送った人物がたくさんいますが、順慶もその一人といえるでしょう。裏切りや下剋上が横行する群雄割拠の時代を、彼はどのように生き抜いたのでしょうか。
今回は順慶の生い立ちや活躍、また「元の木阿弥」の元となった逸話についてご紹介します。
筒井順慶!波乱の幼少期
筒井氏はもともと興福寺一乗院の衆徒でしたが、寺領侵略により勢力を拡大しました。そして順慶の父の代には、筒井城を拠点とする戦国大名になったのです。
2歳で家督を相続した
順慶は大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれました。諱(いみな)を藤勝、 藤政とし、広く知られる順慶は後に仏教の世界に入ったときの戒名です。
天文19年(1550)に父が病死すると、叔父・筒井順政を後見人としてわずか2歳で家督を継承します。幼少期から周辺との争いが多く、三好長慶の寵臣・松永久秀から侵攻されたり、協力関係だった十市遠勝が久秀方に降伏したりと厳しい状況におかれました。さらに永禄7年(1564)には、叔父・順政が病死してしまうのです。
居城である筒井城を追われる
そのような中、永禄8年(1565)に三好三人衆と松永久通(久秀の長男)による将軍・足利義輝の暗殺事件が起こります。ところが同年11月、手を結んでいたはずの三好三人衆と久秀が決裂して内戦が勃発。このとき松永方は、後ろ盾を失い基盤が揺らいでいた順慶に奇襲をしかけてきました。この攻撃により順慶は居城の筒井城を追われることとなり、一族のいる布施城へと逃走します。
筒井城を奪還し、信長に仕える
破竹の勢いを誇る久秀により窮地に立たされた順慶ですが、その後は巻き返しを図ります。順慶はどのように状況を打破していったのでしょうか。
筒井城の奪還を成功させる
永禄9年(1566)順慶は三好三人衆と共謀して筒井城奪還を企て、松永軍への反撃を開始しました。順慶らは美濃庄城を落として筒井城へ向かいましたが、対する久秀は三好義継とのあいだで戦いが起こります。この隙をついた順慶は、筒井城周辺に作られた松永方の陣所を焼き払って外堀を埋め、ついに奪還を果たしたのです。
この奪還成功の背景には、三好家の重臣・篠原長房の進軍があったといわれています。長房の攻撃により、久秀は援軍を向かわせる余裕がなかったのです。
居城を取り戻した順慶は春日大社に参詣し、出家して戒名を受けます。そしてここから筒井藤政改め、筒井順慶と名乗るようになりました。
信長に仕えた順慶の活躍
その後も久秀と衝突し続けていた順慶ですが、元亀2年(1571)明智光秀の斡旋により織田信長に臣従することとなります。対立していた久秀も佐久間信盛を通じて信長に臣従したため、順慶と久秀はここで和睦し、しばらくは表面上円滑な関係を続けたようです。
久秀はやがて将軍・足利義昭らと結託して信長包囲網に加わるようになりますが、順慶は信長の傘下で順調に活躍していきました。長篠の戦いや越前一向一揆に参戦し、光秀の与力になったあとは、雑賀一揆の反乱を鎮圧。久秀が信長に反旗を翻した際には先鋒を務め、久秀親子を滅亡に追いやっています。その後もさまざまな戦いで功績を残した順慶は、信長から大和一国の支配と郡山城入城を言い渡されました。
信長の死と順慶の最期
信長のもとで活躍した順慶ですが、天正10年(1582)に「本能寺の変」が起こり、重要な選択を迫られることとなります。信長がこの世を去ったあと、順慶はどのような行動を起こしたのでしょうか。
信長の死後……順慶は?
本能寺の変のあと、順慶は一族や重臣を招集して話し合いを重ねました。信長に謀反した光秀は、順慶にとって関係の深い存在です。信長との仲介をしてくれた恩があるだけではなく、同じ教養人として友人関係にあり、縁戚関係も築いていました。そのため光秀からは、味方になるよう誘われていたのです。
光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉と激突することになりましたが、このとき順慶は両者から協力を求められました。当初は消極的ながら光秀に援軍を送った順慶でしたが、その後は篭城して中立の立場をとり、最後には秀吉への恭順を示します。これが運命の選択だったといえるでしょう。
順慶の最期について
光秀は敗走の途中で農民に殺されこの世を去りました。光秀の死後、順慶は秀吉の家臣となり、所領だった大和を与えられます。織田家の後継者を選ぶ清洲会議の際も、他の武将らとともに待機したといわれています。
主君が替わったとはいえ順調に見えた順慶でしたが、やがて胃痛を訴えて病に伏せるようになります。そんな中、秀吉軍と織田信雄・徳川家康軍による「小牧・長久手の戦い」が勃発。参戦を促された順慶は病の身でありながら伊勢・美濃へと出陣しましたが、大和に帰還してまもなく病死しました。
”元の木阿弥”の語源となった?
順慶が亡くなったのは36歳のときでした。現代から考えれば短い人生ですが、「元の木阿弥」の語源になるなど後世にも影響を残しています。
「元の木阿弥」の意味
日本語には故事成語がたくさんありますが、「元の木阿弥」という言葉もその一つです。それほど頻繁に使う言葉ではないかもしれませんが、一度は聞いたり使ったりしたことがあるのではないでしょうか。
「元の木阿弥」とは、「一時よい状態になったものが、また元の状態にもどること」です。物事が失敗に終わり何も得られないことから、「水の泡」「ぬか喜び」などが類語とされますが、厳密には少しニュアンスが違うかもしれません。この言葉は、順慶の身に起こった出来事が元とされています。
順慶と「元の木阿弥」の逸話
父・順昭が病死したとき、順慶はまだ2歳という幼さでした。周辺では久秀らが猛威をふるっていたため、この事実が漏れると大変なことになってしまいます。そのため筒井家では順昭の死を隠して、声が似ている目の見えない人物・木阿弥を替え玉として病床に置くことにしたのです。
やがて順慶が成長すると順昭の死が公表され、順昭の身代わりとして贅沢な暮らしをしていた木阿弥は、もとの生活に戻りました。「元の木阿弥」という言葉は、このような逸話が元になっています。
日和見主義は俗説だった?
山崎の戦いの際、順慶は光秀と秀吉のどちら側につくか洞ヶ峠で日和見をしたと言われています。このことから「洞ケ峠を決め込む」という言葉が生まれるなど、順慶は日和見主義の典型といわれるようになりました。しかしこれは俗説で、実際には洞ヶ峠には至らず兵を撤退させたと考えられています。
幼い頃から戦場に身を置いてきた彼はその生涯でさまざまな戦功をあげましたが、それ以外にも茶の湯、謡曲、歌道などに秀でており、教養人の顔も持っていました。僧だったこともあり、仏教への信仰心から大和の寺院を手厚く保護する一面もあったそうです。
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