ジョン万次郎という名前を最初に聞いた時、子供心に「???」となりました。しかしジョン万次郎、実は明治維新においてとても重要な存在だったのです。今回は彼の生涯とその功績について見ていきましょう。
「十五少年漂流記」を地で行く
文政10(1827)年、万次郎は土佐の中浜(現在の土佐清水市)の貧しい漁師の二男として生まれました。14歳の時、仲間と漁に出て遭難し、無人島に漂着します。143日間ものサバイバル生活を経て、ジョン・ホーランド号というアメリカ船に助けられました。この時、船の名にちなんで「ジョン・マン」と呼ばれるようになります。
日本が鎖国中で外国船が近づけなかったため、仲間はハワイで降り、万次郎は船長ホイットフィールドの誘いで共にアメリカに行くことにします。そのまま養子となり、マサチューセッツ州で暮らし始めました。英語もすぐに覚え、学校ではいつも首席という秀才でした。
捕鯨船や金鉱で働いた後、死刑となるリスクを冒して帰国、嘉永4(1851)年に琉球に上陸します。そして長い尋問の後についに故郷・土佐へ戻ることができました。
日本にアメリカの知識を伝えた先駆者となる
ペリーの黒船来航により、幕府はアメリカについて知る必要に迫られました。そこで白羽の矢が立ったのが万次郎だったのです。彼は江戸に招かれ、直参旗本の身分と「中浜」姓を授かりました。貧しい漁師の息子がここまでの立身を遂げたのです。
軍艦教習所で造船・測量・航海術を教え、通訳や翻訳にも駆り出されました。本来ならばペリーの通訳も務めるはずでしたが、あまりにも英語が堪能だったためにかえって周囲に怪しまれてしまい、通訳を降ろされてしまったそうです。しかし陰から助言を行い、条約締結に尽力しました。
それからも、勝海舟らと咸臨丸でアメリカに渡り、日米修好通商条約の締結に通訳として関わります。
帰国後は小笠原諸島付近の知識があることを買われ、開拓や捕鯨に関わりました。
慶応2(1866)年には土佐藩の開成館教授となり、英語や航海術、測量術を教えます。引っ張りだこだった万次郎は、翌年には薩摩藩にも招かれています。そしてついには開成学校(今の東京大学)の英語教授となったのです。さらに次の年には普仏戦争視察団の一員として欧州を訪問し、その帰途アメリカに立ち寄って養父・ホイットフィールドと再会を果たしました。
帰国後、万次郎は病に倒れます。奇跡的に回復を遂げますが、それからは政治家転身の誘いを断って穏やかな生活を送り、明治31(1898)年に72歳の生涯を終えました。
万次郎の薫陶を受けた志士たち
万次郎が最初にアメリカから帰国した時、監視もかねて土佐の絵師・河田小龍が共に生活しました。その時彼が万次郎から聞いた異国生活を記した「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」は、土佐藩主・山内容堂に献上されています。これはおそらく土佐藩士も目にしているはずで、坂本龍馬も影響を受けたのではないかと言われています。
後に土佐藩校の教授となった際には、後藤象二郎や岩崎弥太郎らを教えています。幕府に招かれて軍艦教習所で教授をしていた時の教え子には、大鳥圭介や洋学者・箕作麟祥(みつくりりんしょう)がいます。
また前述の通り、咸臨丸では勝海舟の補佐をしていますし、同乗者の福澤諭吉とは英和辞典を作成するために現地でウェブスターの英中辞典を買い求めたそうですよ。
彼が各地で西洋の知識を広めたことが、志士たちの刺激になったことは間違いありません。
身近なところでは「ABCの歌」を最初に日本に紹介したのも万次郎だそうです。小さい頃口ずさんだ方も多いのではないでしょうか。
性格は至って謙虚で、役人に怒られても貧しい人たちに施しを続けたそうです。本当に、「できた」人物だったのだと思います。だからこそ、江戸時代にアメリカまで行って帰って来られたのでしょうね。
(xiao)
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