戦国期の立花山城は福岡市の東部、香椎の立花山主峰を本城として、松尾山、白岳など山域全体を要塞化した山城。商都、博多を扼する重要な城でした。
天文年間、豊後の大友宗麟は筑前の守護職を得て博多を掌握し、重臣の戸次鑑連(立花道雪)を立花山城に入れ、筑前守護代とします。
戦国末期の天正14年(1586年)、立花道雪の死後、養子の立花宗茂(立花統虎※)はこの城に篭り、筑前に侵攻した島津の大軍に徹底抗戦します。立花宗茂はこの時、弱冠20歳の若武者でした。
押し寄せる島津の大軍と秀吉の援軍の狭間で機略をめぐらす若武者・立花宗茂
戦国末期の天正14年(1586年)7月。九州制覇を目論む島津軍は筑前、筑後の大友勢力を一掃すべく、3万を越える大軍勢で筑後、高良に入ります。北部九州の殆んどの国人は島津方につき、高良の平野は島津方の大軍勢で満ち溢れ、その数は6万にも達しました。
島津軍は大友方、筑紫広門の鳥栖、勝尾城を一気に攻め落とし、北上して、宗茂の実父・高橋紹運が篭る大宰府の岩屋城を攻めます。
岩屋城の城兵は僅か700。が、この攻城戦は熾烈を極め、10数日に及ぶ激戦ののち高橋紹運以下、全員が玉砕。島津軍の戦死は3千にも達します。
これが岩屋城の戦いです。
その後、島津軍は宗茂の弟、高橋統増が篭る宝満山城を落とします。
8月に入り、大友方で唯一残った立花山城を攻めるべく香椎に本陣を置き、立花宗茂以下、2千の兵が守る立花山城を包囲します。
その頃、中央では豊臣秀吉が四国征討を終え、関白となって政権を確たるものにしていました。秀吉の眼は九州へ向けられ、また、島津氏の攻勢で窮地にあった大友宗麟が、秀吉に島津征討を願い出ていました。奇しくも島津軍が立花山城へ向かう頃、秀吉は九州征討の号令を発します。
島津軍の大将、島津忠長は攻撃を前にして軍使を城に遣わし、立花宗茂に開城を勧告します。島津軍は紹運との戦いで消耗しており、要害であり、兵力も多い立花山城の力攻めは避けたかったとされます。島津軍は時折、鉄砲隊を出して打ち掛けるくらいで、いたずらに日数を費やしました。
やがて、島津忠長は8月18日の総攻撃を決めます。
立花山城から宗茂の家老、内田入道(内田鎮家)が使者として訪れたのはその頃でした。入道は島津忠長に対し、宗茂の口上として開城勧告を受け入れる旨を述べます。島津忠長は、「自身が人質となる故、数日の猶予が欲しい」と述べた入道を受け入れ、総攻撃を中止するとともに、客分としてもてなしました。
やがて日が経ち、8月23日に内田入道は島津忠長に対し、思わぬ口上を述べます。
開城の受け入れは謀略であり、すでに立花山城には吉川、小早川といった関白秀吉の援軍が寄せており、島津軍の目論見が瓦解したこと、そして、このうえは我が首を刎ねて、ただちに陣払いをすべきであろうと言ったのです。
この言葉に島津軍の諸将は激怒、内田入道を斬ろうといきりたちました。
が、忠長は内田入道の覚悟を褒め、馬を与えて宗茂の許に帰したといわれます。そして、情勢の不利を悟った忠長は全軍に陣払いを命じ、8月23日の夜、島津軍は立花城下より一斉に撤退します。
日本史上屈指の武将・立花宗茂の伝説を生んだ実父と家老の思い
この逸話は秀吉軍の先鋒、小早川隆景、吉川元春の毛利勢と黒田孝高の軍勢が門司の浦に上陸したことを知った立花宗茂が、援軍が来るまでの時間稼ぎのために機略をめぐらしたもの。
宗茂はそれを見事に成功させ、島津軍による九州統一を挫折させたのです。
その後、宗茂は出撃し、須恵の高鳥居城に留まっていた島津配下の星野勢を討ち、太宰府の宝満山城と実父、紹運の岩屋城を奪還しています。
そして翌、天正15年(1587年)の3月、九州に上陸した関白秀吉の大軍勢は抵抗をみせた島津方の秋月勢を降し、高良に本陣を置きます。
それまで島津方に就いていた国人たちは、草木が靡くように秀吉にひれ伏しました。秀吉は拝謁の国人たちの前で、島津軍と戦った立花宗茂を感賞し、高橋紹運の噴死を称えます。そして、秀吉は数10万に達した大軍勢を率いて島津征討へと向かいました。
その年の6月、島津征討を終えた秀吉が行った九州の国割りでは、筑前、筑後の武将たちの明暗がはっきりと出ました。
立花宗茂には筑後、柳川の13万2000石が与えられ、弟の高橋統増には筑後三池郡の23ヵ村、そして筑紫広門には筑後上妻郡53ヵ村の所領が与えられ、島津軍に抗した大友方の3家が大名に列せられます。
島津軍に従った筑前や筑後の名族、秋月をはじめとした原田、宗像などの国人は旧領を失い、秀吉旗下の大名の幕下に組み込まれました。
そして、これより天下の剛勇、立花宗茂の伝説が始まります。
肥後国人一揆での活躍、文禄、慶長の役では寡兵を率いて明の大軍を打ち破るなどの戦功で一躍、勇名を馳せます。
のちの関ヶ原の戦いにおいて、立花宗茂は秀吉への恩義から西軍に就き、敗戦後に改易となりますが、江戸での蟄居中、徳川秀忠の御伽衆へ呼ばれ、のちには陸奥棚倉1万石に取り立てられます。
そして、大坂の陣での功績により、遂には柳川の旧領を復活させるという奇跡を起こしています。
立花宗茂は武勇と信義を併せ持つ、日本史上屈指の武将として伝説の人となります。
その背景には、子を堅城に入れて自身は前衛の城に篭り、子に後事を託そうと玉砕して時を稼いだ実父と、家老・内田入道の思いがこもっているのでしょう。
*立花宗茂は晩年の名ですが、ここでは宗茂で統一します。
(あらき 獏)
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