【 次から次へと出てくる自称・真田信繁 】 戦国武将たちが使った影武者伝説

未分類
【 次から次へと出てくる自称・真田信繁 】 戦国武将たちが使った影武者伝説

影武者というミステリアスな響きに心が震えない戦国ファンがいるでしょうか。
戦場でなくても、昼夜を問わず戦国大名は命の危険にさらされていました。どこに暗殺者が潜んでいるかわかりませんものね。その危険を少しでも軽減しようと置かれたのが影武者です。今回は有名な影武者についてのエピソードをご紹介します。

筒井順昭:元の木阿弥の起源はこの人から

「無名の僧を影武者にした筒井順昭」
「無名の僧を影武者にした筒井順昭」

大和国の大名・筒井順昭は、周辺の敵対勢力を破り領土を拡大し、筒井氏の全盛時代を築きました。しかし、病を苦にして突然隠居してしまいます。そして翌年、27歳の若さで亡くなってしまったのです。

死の直前、順昭は自分と似た背格好の木阿弥という盲目の僧を影武者として連れてきました。
そして自分が死んだら3年間それを隠せと遺言したのです。

順昭の死後、木阿弥は影武者として贅沢な暮らしを送りました。やがて筒井家が主の死から家を立て直すと、彼の役目は終わり、再び一介の僧に戻ったのでした。
このことは、物事がすべて振り出しに戻ってしまうという故事成語「元の木阿弥」の由来となっています。

山内一豊:目くらまし!同装束六人衆

「赴任当初は苦労した山内一豊」
「赴任当初は苦労した山内一豊」

関ヶ原の戦いの後、戦功を認められて土佐を与えられた山内一豊ですが、目下の悩みの種は旧領主・長宗我部氏の遺臣でした。彼らは一豊の支配に反発し、一揆や反乱を繰り返していたのです。そのため、城外に出るのは命の危険を冒すようなものでした。

高知城を築城するに当たって、一豊は視察に訪れます。しかし外は安全とは言えません。
そこで一豊は、気心知れた配下5人に自分と同じ装束を着せて連れ歩くことにしました。このことから、「同装束六人衆」と呼ばれたそうです。
確かにこれならどれが一豊かわからない人も多かったでしょうが、傍から見るとこれは異様な光景ですね・・・。影武者と本物が一緒にいるんですから。

真田信繁:次から次へと出てくる「真田信繁」

『大坂夏の陣図屏風』に描かれた真田勢。
『大坂夏の陣図屏風』に描かれた真田勢。

大坂夏の陣における最後の決戦で、力尽きた真田信繁は安居神社で討ち取られました。
しかしこの戦いの際、「我こそは真田信繁なり!」と叫びながら敵陣へ突っ込んでくる騎馬武者が何人もいたそうです。加えて、首実検にも幾つもの「信繁の首」が提出され、判別するのが大変だったということでした。
となると、やはり信繁には影武者がいたと考えても良いでしょう。一説には7人いたとも言われています。

首実検の末、一応「これが信繁の首です」となりましたが、その結果にも疑問を呈する説があります。
このようなことが、信繁生存説の一因となっているのですね。

武田信玄:板部岡江雪斎を欺いた、弟・信廉

「兄そっくりだったが芸術肌だった武田信廉」
「兄そっくりだったが芸術肌だった武田信廉」

武田信玄は死の床で「自分の死を3年間隠せ」と言い残しました。実際は隠せなかったようですが、どのように隠そうとしたのかといえば、やはり影武者を使うことだったのでしょう。

武田家の軍学書「甲陽軍艦」には、信玄の弟・信廉は体格や顔立ちが信玄に似ており見分けがつかなかったと記述されています。そして西上作戦の途中で信玄が死ぬと、遺言通りにその死を隠し、信廉を信玄の代わりとして甲斐へ引き上げたのだそうです。

信玄の死の噂を聞きつけた北条氏政が、その真偽を確かめようと板部岡江雪斎を派遣してきましたが、信廉は見事にこれを欺き、うまく対応したと伝わっています。

徳川家康にも影武者伝説がありますが、歴史学的には否定的な見解が強いようですね。
影武者自体は史書に登場することもあまりないために存在がはっきりとは伝わっていませんが、少なからず戦国大名は影武者を有していたと思われます。他にも影武者がいた戦国大名、探してみて下さい。

(xiao)

関連記事
【謎に包まれた最期】幸村、家康…全国各地に複数存在する武将の墓所まとめ
【閲覧注意】松永久秀は日本史上初の爆死!壮絶・奇病、戦国武将の散り際
【家紋が似すぎで刃傷沙汰】上杉家&伊達家の「竹に雀」…似てる家紋の意外な繋がり

Visited 1 times, 1 visit(s) today
READ  【種子島に伝来した火縄銃】その仕組みと戦いの歴史

コメント

タイトルとURLをコピーしました